愛想が尽きるとき自由になれる

昨日の記事では、
「怒り」という感情に関して、
それは人の精神に普遍的に備わっている
摂理のようなものであり、
そこに善悪の評価を断ずるのは
人の自我によるものである、
という趣旨の話をしました。

そのようなことから、
「ならば、人は怒りを抱えたままでいいのか?」
と問うのなら、
やはりそれは否であるのでしょう。

ともあれ、
「怒り」によって
何かしらが解体され、
そのエネルギー自体も昇華されていくことが
本来の摂理ではあるのでしょうが、
自我を持つ人間にとっての「怒り」というものは、
ドライアイスがが溶けて
気体へと昇華していくように、
簡単に、潔く消えてなくすのは
難しいことであるのは、至極自然なことだと思えます。

この辺りの話は今回は割愛しますが、
要するに、
感情には、その感情なりの
もっとも理想的な昇華のさせ方が
あるのではないか、ということ。

それが例えば「怒り」であった場合、
どのように昇華していくのか。

そう問うに、
平たい言葉で言うところの一つに、
「こいつ(これ)、しゃあねえなぁ。一生やってろ」
と思い至ることのできる
境地にあるのではないかと思えます。

心底、怒りを伴う対象に対して、
このように思うことは至難の技なのでしょうが、
それでも、
日常生活の中で
多少、イラっときた瞬間くらいのものであれば、
「しゃあねえな」と
思うことはできると思います。

程度の大小の差があるだけで、
前者も後者も、
「怒りという感情」に対して同じように
『受け入れて、手放している』わけで、
昇華に至るプロセスは
全く同じものなのです。

そもそも、「怒り」という感情もしかり、
『全ての感情は持つことができない』のですから、
それを無理してまで持とうとするところに
人の業は生まれるのでしょう。

そうした「業」から解き放たれて、
自分自身がそこから立ち去っていくための
「しゃあねえな、一生やってろ」
なのです。
ただ、言うだけでは叶いません。
本当に心底、そう思えないと。

感のいい人は、ここで気づくかもしれませんが、
つまり、この心の底から
「しゃあねえな」が出る時というのは、
要するに『愛想が尽きた時』であるとも言えるのです。

ただ、ここで愛想が尽きるのは
誰でもなく「自我」のことです。

「自我」が手放せば、
あとは
必要のないものは
そのうち消えてゆくだけなのでしょう。

それを分かっても、分かりきれないのが
自分の内に抱える「自我」なのですが、
この「しゃあねえな」と思えた数だけ、
人は自由になれるし、身軽にもなれるのです。