音になる

何度も書いていることではありますが、
現在、レコーディング中です。
ちなみに、今はギターの録音。

今回の制作は、
20曲と収録曲数が多いこともあるのでしょうが、
なかなか進まないし、
正直、しんどかったりもします。

僕自身、恥ずかしながら
もう、そこそこの年齢ですし、
この歳でこんなものなら、
まず100パーセント
僕は死ぬまで浮かばれないだろうし、
僕の楽曲も、
せいぜい僕が生きているうちだけ
かろうじて「存在している」だけで、
間違いなく、残ることなく
消えていく曲たちです。

これは、自分を卑下しているというより、
『動かない事実』なのだろうと
受け入れています。

ずばり単刀直入に言ってしまえば、
僕の人生の唯一の拠り所だった
「音楽の才能」というやつも、
客観的に見れば無かったのだろうと思えます。
若い頃に信じてきたこれは
ただの幻だったと。
単なる若さゆえの過信だったのだと。

歳を追うごとに、そのことを
痛みいるようになって、
それだけに、
長丁場の録音作業に向きうと、
常に自問自答が付きまといます。

「これをやったところで、何になるのか?」

答えは歴然としています。
『何にもならない』

『今やっていることは全て徒労である』と。

そこまで分かりつつも
何度もテイクを重ねていくわけです。

そんな中でふと
そういう葛藤から解き放たれる瞬間
というものがあるのです。

僕の音楽人生において、
過去というものは無いに等しく、
文字通り、ただの一つの語り草さえ作っていないし、
この先に至っては
上述の通りなのでしょう。

そして今という瞬間にあっても、
今していること(作業)が
現実の生活の中で利益になるわけでもない。

現実の世界では
本当に取るにならない
石ころのような存在である
この「僕という存在」の自我は
完全に消え去って、
ただただ純粋に
「自分に降りてきた音楽を記録する」という
『行為そのもの』であり『事象』であるのだという
境地を垣間見る瞬間というのがあるのです。

その時僕は、
「録音をしていた」というより
「音楽そのもの」であったと言える瞬間があるのです。

これはおそらく、
続く録音作業の疲れで
テンションがハイになっているという
次元のものではなく、
自我を含めた一切の雑念が
取り払われた瞬間の境地なのではないかと思っています。

僕にとっての音楽の本質というものは、
究極的にはここにあるのだろうと思えます。

昔、今のような形態で音楽活動を始めた頃の
コンセプトというのがありまして、
それが
「最も純度の高いロック」
というものでした。

10年以上、今のように音楽を続けてきて
ようやく、それを体現できそうな予感を
感じている気がします。

でもまだ、
「体現できるかも」という程度で、
これを本当に体現していくには、
もしかしたら
もっと「自分」という
パーソナリティや自我のディテールを
解体していかなければならないでしょう。

僕の作る曲の
「濁った部分」というのは、
他でもない、
まさに「自分自身」だったのです。