哀しみとて、在るが儘に

昨日、一昨日の書いてきた
感情にまつわる記事からの延長として、
今度は喜怒哀楽のうちの
「哀しみ」についても、
「怒り」と同様のことが言える点について
触れておきたいと思います。

昨日の記事にも書いたように、
「怒り」という感情は
「しゃあねえな」という心境によって
乗り越えられるものなので、
それはまた「哀しみ」にも
同じことが言えるのだと思われます。

ただ、
「しゃあねえな」のベクトル、
向けられる対象が正反対であるのかもしれません。

「怒り」の場合の「しゃあねえな」は
往往にして、
怒りの対象というものが「外側」にあって、
この外側に対する「しゃあねえな」が
怒りを乗り越えることに繋がっているわけですが、
「哀しみ」に対して「しゃあねえな」という先は
大抵は自分という「内面」に向けられるのだろうと思えます。

「怒り」という揮発性の高い感情に対して
「哀しみ」という感情が
おおよそ「怒り」のそれに比べて
持続性を有しているように思えるのは、
「哀しみ」の中心(本質ではなく)が
「外側の何かしら」のように
移ろいで消えていったりすることのない
「自分という内側」にあって、
これが、当然のことながら
いつでも、どこでも、
自分と不可分な部分に巣食っているから
と言えるのだろうと思えます。

結局、「自分が癒えない限り」哀しみは
いつもそこに居るわけで、
「怒り」のように発散して、
あるいは、発散することによって
怒りの対象を退けたりできる
質のものではないが故に、
時として人は、その感情のやり場に困って
それを覆い隠して、
場合によっては抑圧さえしてしまうのでしょう。

けれど、隠しても、あるいは抑えこんでも、
消えることはないのです。
『自分が癒えない限りは』

まあ、これ以上のこととなると
それこそ精神医療とか心理学とかの
僕などにはアプローチできない
領域になってしまうので、
ここから先の言及については止めておきますが、
要するに、
ここで「しゃあねえな」と
『自分に言えること』というのは
『自分が癒えること』でもあるのだということ。

「怒り」の場合のそれと同様に、
「哀しみ」の場合の「しゃあねえな」も結局は
『否定的な現状の肯定』なのです。

その現状がどうにも変わらないのであるのなら、
いっそのこと、もうそれは
このままで良い、と思うに至る境地のことで、
それすなわち「しゃあねえな」なのです。

昨日の記事のように、
「しゃあねえな」で
精神が自由に解放されるのだという理屈を
今日の言い方になぞらえるのなら、
『精神の解放というものは現状の肯定によって達成される』
そう言えるのでしょう。

ただ、ここで熟考が必要なのは、
否定的な現状を肯定するということは
間違っても
「諦める」ということではない、ということです。

「心残りだけど、しゃあねえな」
ではなく、
「もう悔いはなし!しゃあねえな」
という言い方のできる肯定です。

こうして文字にすると分かりやすいように、
前者は明らかに
抑圧が主体であり、
後者は解放であるということが見て取れると思います。

何れにしても、
感情というものは
沸き起こっては、消えていくものなのです。

心に感情が滞ることなく
流れ出すように生きることというのは、
魂にとって
純粋な生き方であり、
また、人の精神にとっても
それはストレスのない
健康的な生き方でもあるように思えるのです。