お前は何者だ?

「自分は何者であるか?」
それを然りと、全肯定のうちに
実践できている瞬間というのは、
まさしく、「今この瞬間、その者である」ので、
これはきっと、
この世界、森羅万象あらゆるものの中で
最も尊く、至高の状態に自分がある、
という意味でもあるのだろうと思えます。

もう少し簡単に説明するなら、
「今、一点の曇りもなく
自分が完全に肯定できているところの
自分でいられている」状態こそ至高である、
ということ。

そもそも、
自分は自分以外の何者にもなれないわけで、
いわば、
「この世界には自分一人しかいない」
とも言えるのです。

その唯の一人である「自分」が
最も肯定した状態にあり、
また、それを愛し、恍惚としているということは、
世界もまた肯定のうちの恍惚にあると言えます。

「お前は何者か?」
そう問われて、
今、最も理想的で肯定的な
自分でいられるときというのは、
おそらく、いや、
間違いなく
「本当の自分」を体現している状態にあるのだと思えます。

そして、ここが重要なのですが、
人の生きる人生において、
この「至高たる自分」でいられる時間が
長いほどに、人は幸福でいられるのでしょう。

例えば、富や仕事、立場、
そういうものを持っているということは、
「至高たる自分」であることに
それほど関連したり、条件的に依存したりということは
ありえないのだと思えます。
こういう条件などの有無というのは
所詮、二次的な要素、要因に過ぎず、
それ自体に「絶対的な実存」があるわけではありません。
こうしたものに「先立つ何か」があるはずだと思えます。

その「先立つ何か」こそ、
『いのちが望み、愛すること」である気がします。

故に、
「お前は何者か?」と問われて
命を実践している人ほど、
自分を生きていることになるし、
最も幸福であるし、
またそれは、
外的、あるいは物理的な条件や所有に
依存するものではない、
「いのちの本質的な価値」なのでしょう。

「自分は何者か」を問う時、
大企業のエリート正社員である必要は一切ないし、
かと言って、その日生きるのも困窮するほどの
貧しい自分であっても、また悲しいものです。
何れにしても、
こうしたものの中に
「本当の自分」を見出すことは不可能です。
もし、こういう次元に
「本当の自分」が見えているというのなら、
おそらく、人生や世界というものを
大回りして見ている気がします。
それ自体を否定はしませんが、
そこはあくまで通過点、通り道であって、
まだ先に行きつくべき場所はあるはずだと思うのです。

そういう回り道をして、
散々歩き回って、
最後に見つかるそれのある場所は
おそらく、自分から最も近いところなのだと思います。

そう。
「自分は何者であるのか」と問うたなら、
結局は
「自分がいちばんなりたい自分のこと」なのです。
そこに外側にある物事は
一切存在しないのです。

ただただ、
自分が、最も愛せている自分でいられているのか、
その一点だけなのです。

そして、たったこの一点の存在が
人を幸せにも、あるいは不幸にも、
貧しくも、豊かにもさせているような気がします。

まずは全てをかなぐり捨てて
自分という命を実践してみろ。
話はそれからだ。