心は花火

先週から、感情に対する
向き合い方についての考察をしています。

とりあえず、
感情のネガティブな側面に関する事柄について、
ざっくりと早い話が、
さっさと忘れてしまうのが一番、楽であるという
趣旨のことを考えてきました。

確かに、嫌なことは忘れてしまうのが
もっとも賢明な処し方であるし、
もともと感情の質自体が
そういうネガティブなものであるのだから、
「自分の意思で」手放そうと試みるものです。

では、喜怒哀楽という基本的な感情の中の
「喜び」や「楽しさ(あるいは快楽)」
といった質のものまで、
果たして人は
いっときのものであり、
時が過ぎ去れば、何の未練もなく
その感情を手放すことはできるでしょうか。

ここが先週からお話をしてきた
感情に関する考察の
核心だったりします。

感情にまつわる
ポジティブな性質、あるいは
ネガティブなそれも同様に、
この現実を生きる中で
沸き起こる感情というものは
外的な(ともすれば物理的な)
現象や条件とは切っても切り離せないものです。

なぜなら、
感情、つまりは自我のフィードバックなのですが、
それは必ず外的な現象や条件が先立つからです。

いわば、感情というものは
『この世界のもっとも末端にある現象』なのです。

感情と現象との間で右往左往しているのが
人間という存在なのでしょう。

元々が、そういう質の世界にあって、
楽しいことや喜ばしいことという感情を、
その感情の由来するところの
条件や現象も一緒にひっくるめて、
そうそう簡単に
「過ぎ去ったこと」と割り切ることができるでしょうか。

確かにこの考え方は一見、
ドライな印象と見受けられかねませんが、
それでもやはり、
『昨日吹いた風は、昨日吹いた風でしかないのです』
それを知りつつも
手放しがたいそれは、
ある種の「成功体験の呪縛」であるのかもしれません。

一応フォローまでに付け加えておきますと、
別に過去に経験した尊くも輝かしいことを
一切忘れるべき、と言っているわけではありません。

「あの時、楽しかったね。
明日はまた別の楽しいことがやってくるんだよね」

そう言えるのなら、それは健全でしょう。
ポジティブな感情に対しての
健全な処し方だと思います。

「成功体験の呪縛」に陥る時というのは、
おそらく
「あの時、楽しかったね。
明日はまた同じ楽しいことがやってこないかな」
という思考なのでしょう。

前者は、「楽しかったあの時」を
手放して次の新しいそれを期待しているのに対し、
後者は、「楽しかったあの時」に固執して
それがもう一度やってくることに執心している。

心理的な方向としては
完全に逆の方向を向いていると言えます。

そう考えるとやはり、「過去」という
時間の風下を見つめているだけでは、
それは「今」から遠ざかっていくばかりで、
余計に辛くなるばかりなのは明白なのではないでしょうか。

にわかに自己啓発じみたロジックに
なってしまいましたが、
それでも結局、
「怒り」や「悲しみ」と同様に
「喜び」や「楽しみ」もまた
持ち続けるとそれは「重さ」を伴っていくことには
違いはないように思えます。

感情というものは
その瞬間ごとに開花する
花火のようなもので、
次々と新しい瞬間に
咲かせていくものだと思うのです。

ドライフラワーを眺める人生も
また一つの人生なのでしょうが、
それを手放したからと言って、
それが無くなったわけではないのではないでしょうか。
事実として、
ドライフラワーを手放そうが、手元に置いておこうが、
どちらにしろ、
この瞬間、そして次の瞬間と、
常に絶え間なく
新しい感情の花火は輝くわけで、
気づかないだけで
一瞬足りとも「失っていた時間」などないのですから。

感情が現実に対するフィードバックであるのなら、
感情が日々更新されるとすれば、
現実もまた刻々と更新されている証拠でもあるのです。

こうした感情のエネルギーが
対流し、そして滞留しているのが
人が生きる「この世界」なのです。

より生きやすく生きるヒントは
もしかすると、ここにあるかもしれません。
けれど、何もないかもしれない。
それを決めるのは
あくまで「自分」であることだけが
揺るがず確かな事実なのでしょう。