のちの「ハレルヤ」である。

ここのニュースによると、

人工知能に
国会答弁をさせる実験
(正確には答弁の下書きをさせる、らしい)を
始めたそうですが、
これが成功して実用化されるようになると
なかなかのえげつなさを持った
シュールな世の中になっていく気がします。

今の国会では
議員があれこれ質問をしたことに対して
大臣などが答えるという
ごく当たり前のやりとりを、
大臣に変わって人工知能が答えるようになる
ということです。

まあ、もともと
国会の答弁は
あらかじめ前もって
国会でされる質問があって、
それに対して、いろいろ精査して出た答えを
用意して進行するわけなので、
いわばこの「台本」のような
質疑応答を人間の代わりに
人工知能にやらせれば
労働時間が短縮できるというのが
狙いらしいのですが、
こうしてジワジワと
人間の労力や判断が
コンピュータに依存していくようになるのは、
やはり不自然な気がします。

もちろん、
こういう世界のナンセンスさというのは
その世界の外側で俯瞰すれば
誰もが想像できるのでしょうが、
これが「安楽の奔流」となって
国民全員を飲み込んでいくことが
怖いと感じます。

考えることや判断することというのは、
今は紛れもなく人間の行為なのですが、
人工知能がそれを代わりにやってくれるとなって、
それが「実に楽」だと感じてしまった
多くの人は、
「なんだか薄気味悪いことはわかっているけれど、
実際、楽だし」と、
安楽の渦の中へ流され始めると
おそらくもう、抑制は効かなくなるでしょう。

完全に思考を
機械に明け渡した状態になり、
明け渡さない人たちを
「悪」とさえ呼ぶようになるはずです。

実はもうすでに、
人工知能など存在しなくとも、
「無知性であることの礼賛」という
素地は作られているのです。

『管理者階級の人間以外は無知性であるべき』

という方向に社会は静かに向かっています。

そうやって作られた道を導管にして
人工知能は侵食してくるのです。

管理者にとって、
何も知らず、何も問わない人間が
都合がいいように、
「安楽の奔流」はやがて
管理者層さえ食い破って、
政をはじめとして何もかもを
人工知能にお伺いを立てなくては
社会が動かない時代になっていきます。

もちろん、そういう社会になったとして
誰もがそういう社会に
疑問や違和感を持たないということは
決してありません。
誰しもが「個人的には」
非人間的な違和感を拭い去れないでしょう。

にもかかわらず、
「けれど、楽だし」

そういう思いが
生命の力を放棄させ、
試験管や保育器のような
社会ができあがるのでしょう。

快適だからいいじゃん、と。