差の世界

この世の全ての人が、
それこそまるで神様だか、聖人だかでもあるように、
高尚かつ高潔な人間ばかりしかいないとしたら、
この世界は、もう人の住む世界ではないのでしょう。

一方、逆に
極悪人の集まりがこの世界だとしたら、
そこは人の住む世界ではなく、地獄なのでしょう。

つまり、
善人も悪人もいる世界が
この世界、この現実であって、
誰しもが、さして変わりのない
横並びの世の中になったとしたら、
その世界はおそらく、
死んでいくしかない世界ではないかと思えます。

玉石混合であるということは、
ある意味では「混沌」のことなのでしょうが、
別の意味では「エネルギーの満ちたもの」でも
あるのだと思うのです。

「差」があるから
人は動的な人生を体験することが
できるのではないでしょうか。

けれど、人という生き物は愚かなもので、
この摂理によって生まれる「差」を
「差別」としてしか
扱うことができないのかもしれません。

「差別」を恐れて
「差」を無くそうとすることは、
言い換えれば
自らの存在たるエネルギーを下げて
封じ込めるようなもの。
だから、世の中というものは
なお一層に重さが増すのでしょう。

「差」の概念と
「差別」とが誰にとっても
等しい意味を持つとき、
「差」の概念は
エネルギーを失って、
「差別」としての意味合い以外の示唆を
得られなくなってしまうのです。

こうやって、
固定概念や一般常識は作られるのですが、
これに則って生きるということ自体が
命の力を限りなく削ぎ続けることである気もするのです。

ただ、
これがそもそも「俗世」
あるいは「浮世」であるというのなら、
人は自らの生をして
いかに自分に多くの制限を課して生きることを
強いた存在であるのかとも思えます。

不自由であるところに
自分以外の何かしら、つまるところ、
「自分と他との差」を見出すのが
この世界の本質であるのなら、
この世界というものは
徹底的に「自分とは異質」な世界であるほどに
有用であるといえなくもないでしょう。

「異質」を眺めるほどに
「本質」が見えてくる。
そういう意味で
善人も悪人も、
無知も、博識も、
全てがごった煮のるつぼのようになった
この世界は、それを観て、体感するのには
理にかなった世界なのかもしれません。

自分にとって、
理不尽なほどにあり得ない事柄の数だけ、
それを体験した数だけ、
自分という精神は
より多くの観念を獲得し、
あるいは、
「差異」が生む動的な力を持ってして
それだけ拡大していけるのですから。

この肉体を持って生きている限り、
「平坦な世界」に対しては
否と言い続けるべきであるように感じます。