平和は選びとるもの

争いのない平和な世界など
存在し得ないと思うのです。

確かに、揉め事のごたごたで溢れかえる世界より、
誰もが尊重し合う争いのない世界の方が
良いのは明白なことではあるのです。

けれど、本当に人は
争うことを完全に捨てることなど
できるでしょうか。

時々、
「平和ボケ、良いじゃない。
平和でボケていられることの
何が悪いのか?」
という言葉を耳にすることがあります。

この言葉の言わんとするところの
気持ちはわかりますが、
これは悲しいかな、
殺伐とした世の中に疲れた人の
逃避の言葉でしかないのだと思うのです。

そもそも、
戦後の日本、特にバブル経済の頃から
日本人は平和ボケしていると
言われていました。
実際、平和ボケしていたのでしょう。

その平和ボケを続けて20年余り、
今の日本の姿は
平和ボケの結果だと言えるのではないでしょうか。

かつては、それはそれで
平和だったのかもしれない。
けれど、平和であることは
同時に劣化し、腐敗していくことも意味していたのです。

平和も、ゆとりも、
その行き着くところは
衰退でしかないのです。

もちろん、
戦うこと、争うこと、そして憎しむことを
僕は礼賛しているわけではありません。

「平和ではない状況、現実」というものは
世の中には大なり小なり、合わせて半分はあるはずだと
僕は思っています。

平和、対、争い。
これは内的な意味ではもちろん
ポジティブ対ネガティブ、とでも
換言できるのでしょうが、
これらは、常に自己の認識の中で
半分ずつ、拮抗したものとして
存在しているのが自然なことなのだと思うのです。

平和(あるいはポジティブ)の中に
完全に没入したところで、
永続的な安寧は得られないはずです。
なぜなら、平和だけでは
弱体化していくから。
弱体化し、腐敗し、病んでいく精神を抱え、
それでもそこが永遠の平和の地平であると
どうして言えるのでしょう。

平和であることと、
その反対であることとに対峙し
葛藤の中で考え抜き、悩み抜き、
そして
『それでも自分は戦わないと誓う』
そう自分の中で誓うことが、
精神を強くさせるし、
本当の意味での
『平和の選択』なのだと思うのです。

ただぼんやりと、
あらかじめ設えられた平和の中で
受動的に生きているだけでは、
『人の中の平和』を行使したとは言えません。
故に、平和を行使しない人は
平和の中を生きていないことでもあるのです。

そして、平和を行使するには
時として、味わいたくはない
「平和でないこと」も甘受する必要があるのです。
「平和でないこと」も知らなければ、
『今、自分が平和を行使する意志の必然』が
無くなってしまうから。

単に苦痛だから平和を選ぶのではないはずです。
平和を選ぶことの真意は
「平和でないこと」の行き着くところは
破壊や破滅でしかないことを
「知っているから」なのです。

ならば同時に、
「平和であること」の行き着くところも
堕落と弱体でしかないではないか。

この葛藤から導き出される
「自分の中の答え」を実践することが、
この平和か、そうではないのかという
概念の二元的な拮抗を
統合することになるのです。

この二元性の統合こそ、
人の精神の叡智であり、賢さであると思うのです。
そして、永遠とも思える
二元的な葛藤をするその姿、その振る舞いこそが、
どちらに傾くこともない
統合された自分という「ひとつ」なのです。