検索できるから、学校は不要

今の時代、日常生活において
複雑な数の計算など必要がないと思えます。
せいぜい簡単な
足し算引き算と、九九さえ覚えていれば
日常生活は事足りるはずです。

複雑な計算を解くことができる
重要性、特殊性というものは、
すでに計算機が普及し、パソコン、スマホと、
そうしたテクノロジーの賜物が
全てこなしてくれるのですから、
『計算を解くだけでは何も特技にはならない』のです。

一応フォローとして
もう少し突っ込んで細かく言うなら、
「学校などで求められるような計算が解ける」だけでは
何も自慢にならないけれど、
学校などで求められ、提示される計算式が
どのような構造をしているか、
あるいは、そうした計算式を
一から構築できる論理思考力に関しては
非常に重要だと思います。

つまり、例えば
「ケプラーの法則」(高校で習うと思う)と言って
惑星の動きを計算する計算式があるのですが、
こう言うのにしても、
大切なのは、その公式に用いられる
様々な値が何を意味し、
それを足したり、掛けたり、割ったり、
あるいは乗算したりする意味を知らないと、
公式自体のコンセプトというか
構造まで把握することは出来ません。

公式に数字を当てはめて
正しい答えを出すということなど、
それこそ
コンピュータの十八番なのだから
それにやらせておけばいいし、
それを今の時代、
「間違えることもある人間の頭脳」に
5分、10分かけて解かせる意味はないと感じます。

それより九九で言うなら、
「8 X 9=72」の場合、
これは単純に本来、丸覚えで
無条件に(まあ、結果的に無条件になってしまうにしても)
「8 X 9=72」と言う「単語」であってはならないと
思うのです。
「8 X 9=72」はあくまで
8個のものが入った袋が
9袋あるから、
全部で72個である、と言う
論理的な構造を把握していることが
当然、重要なことなのですが、
これが九九のような簡単なものであれば
丁寧に説明してくれる人はいるでしょうが、
より複雑な法則などの公式ともなると、
なかなかその論理構造から丁寧に説明されることは
ないように思えます。
(少なくとも僕の経験上ですが・・・)

さて、話はこのような
理系的な範疇のことに収まることではありません。

上述の「算数や数学」にとどまらず、
今の時代、
少なくとも今の日本の学校教育で行われるところの
『知識の詰め込み』そのものが
パソコンやスマホの登場で
その存在意義の根幹から全否定されようとしているのです。

もうお分かりかもしれませんが、
人が計算機を使って計算の答えを導き出すように、
何かしらについての知識に関しても
わざわざ文献を探して紐解かなくとも
検索すれば一瞬でその知識を得ることができるのです。

何か知識を求められた時、
人はその時、
自分の中にその知識を
持ち合わせている必要はないのです。

『問われたら検索』
で済む話なのです。

そして学校教育は
このようなこと(全てとは言いませんが)を
少なくとも義務教育、そして高校、大学と、
6歳から数えてもおよそ10年から20年弱と言う期間、
それも「人間形成」において
もっとも重要な期間を、
そのような『無駄な知識の詰め込み』のために
費やせと言っているのです。

数学の公式と同様に、
知識全般に関しても
「知っている」ことは何もすごいわけではなく、
もともと獲得していた知識にしろ、
その場でさっと検索して得た知識にしろ、
『それらを使って何を構築するのか』
ここの方が重要であるはずなのですが。

今の学校教育に関して、
生徒の知識を増やして国力が上げると言うよりも、
むしろ若い頃から仕込んで、
あるいはそれは「ナショナリズムの洗脳」かもしれない、
『国にとって、文句を言わない人間作り』として
機能しているのではないかと
言ってもいいかもしれません。

実は勉強など出来なくていい。
いや、出来ない方が
国としては都合がいい。

もともと、少なくとも日本においての
近代の(明治以降か?)学校教育というものは
『本当の意味での学術を身につける場所ではなく、
ナショナリズムと統制を刷り込ませる機関なのです』

「検索する」という今の行動様式によって
「高い教育、知識の啓蒙」というものの
絶対性が失われてしまえば、
そこに真の教育とはかけ離れた
「何かしらの意図」が潜んでいたりするかもしれません。