知性という幻を踊る

人間が人間足り得る能力である
「知性」を持っていることこそが、
人間を他の生き物より
高等な生き物であることの
証であるかのように言うのは、
当然、人間だけであり、
これは生物の進化の結果ではなく、
増殖した奇形の成れの果てであると
考えることはできないのか、と。

少なくとも人間が「一般的に誇るところ」の
知性というものは
叡智というよりは、
エゴの武装のようなものではないかと思えもします。

確かにエゴを拠り所にした知性は
様々な形で人に、
より安全で楽な生活をもたらしました。

けれどその安楽も、
もしかすると「知性の幻影」に
過ぎないのかもしれません。

こうすると、より早く。
ああすると、より楽に。

見せられるその「便利そうな結果」を求めて、
かえって何かを不便にしていないか?

例えばスマホだってそう。

あれば、確かに非常に便利です。

けれど、あの高価な通信費を支払うために
余計な労働を強いられていないか?

ちょっとそこまでの
タクシー代、あるいは
自動車のガゾリン代。
今だけの暖かさ、
とりあえずの涼しさ、
その時、その瞬間は楽かもしれないけれど、
巡り巡って、結局大きな労力になっている、
そんな物事は、
実は結構あるのです。

人は言います。
それが経済だと。

けれどこれは、
『楽をした不都合をたらい回ししているだけ』
に過ぎないのです。

回すことができればいいのだから、
その深部に潜む危うさも見ないことにして
根本的な解決は「しないようにする」し、
回って成り立つからこそ、
その不毛なババ抜きから離脱することもできませんし、
離脱することは、
ある意味、死に等しいことでもあったりします。

それが人間社会のルールだというのです。

これが人の知性が作り出した幻なのです。

何かを一つ実現させると、
どこかで何かが犠牲になるのは、
本当にそこに何かが生まれたわけではなく、
どこかから拝借して形を変えた何かであるから。

故に知性が生み出すものは
幻なのです。

幻だけを追うから
何も良くはならないし、
そもそも、根本的な物事には
何も作用していない。

だから疲弊していく。

けれどそもそも、
こういう性質自体が
人間の本質なのかもしれません。
良くも悪くも
人間というものは高尚な存在ではないのでしょう。

目先にない本当に大切なことは
「とりあえず、たらい回し」にして
低俗さの中に没入して
生涯を消費する。

知性とはそもそも、
そのためのノウハウに過ぎないのかもしれません。

皆がそうしているから、
おそらく、
深く考えなくても、そのままでもいいのでしょう。

それが知性というのだから。

太古の昔から、
そしてはるか未来永劫に至るまで、
これが人間クオリティなのでしょう。
永遠に変わらず。