自然物の定義

元を正して、
シンプルに考えてもて欲しいことがあるのです。

この世界には宇宙があって、
そこには太陽があり、
その太陽の周りを回っている地球には
様々な条件によって決められた環境があって、
その環境に適応しながら
人間もしかり、他の動物、植物全てが
ここに生きているわけです。
大きい方(つまりマクロ)から
人間という存在を見たわけです。

今度は逆に、小さい方(ミクロ)から
この世界を見るなら、
人間などの動物や、植物などがいる
「ここ」が地球で、地球が太陽の周りを回っていて、
そういうものがぐるぐると回っている空間を
宇宙と呼びます。

大きい方にも、小さい方にも
ここで起こる現象は全て
自然現象なのです。

誰かがくしゃみをするのも、
星が超新星爆発をして
ブラックホールになるもの
自然現象に属するものです。

それでは、
人がもの思うそれは
自然現象なのでしょうか。

例えば、今僕がこの記事を書くために
思索を巡らしているこの「力」は
自然現象なのでしょうか。

もし、
何を考え、何を思おうとそれらは
自然現象であるのなら、
あらゆる考えや感情が
自然の摂理に則った現象の一つであるのなら、
人は決定論の支配する自由意志のない世界を
生きていることになります。

しかし一方、
いや、自分という存在は
宇宙、自然の法則や摂理とは
分離して存在し、
もの思い、感じているのだとするなら、
そこには「人にとっての」自由意志は
存在するだろうし、
理に適ったものも然り、
自然でないもの、つまり
「自然の摂理に適わないもの」をも
構築できる自由さまでも持ち合わせることができるのです。

この、「決定論に対るすところの不確定さという差」が
あるから、森羅万象に動きが生じるといっても
いいかもしれません。

実は人間の世界というものは、
後者の考え方を基盤に
発展してきた世界なのです。

(通常考えるところの)人の英知とは
『荒ぶる自然を治める』ところから
文明の礎が築かれたことを考えれば、
自然の摂理から
人間という個人を切り離して、
人間独自の枠の内側に世界を作って生きようとするもの
理解でくる話だったりします。

おそらく、こうして
人の自我というものも
成長していったのでしょう。

最近では、
『自分の自我に、自分が押しつぶされる』
そういう人が多いような気がします。

身を守るためであるはずの「自我」が
自分を責め、悩ませるようになっていくのは、
何百年も前の話なら
それは芸術家や哲学者の専売特許のようなもの
だったのかもしれませんが、
今の時代、ここ数十年、急速に
自我に自分の首を絞められる人が
増えている気がするのです。

何故「自我」が
そのような振る舞いをするようになるのかは
また別の機会に譲るとして、
もう一度冒頭に戻って
至極シンプルに、原点に戻って考えるならば、
この世界、森羅万象、
その中で起こるあらゆることは、
もれることなく全て
『現象』なのです。
一定の法則に従って落ち着くように
定められた現象なのです。

そして、そういう摂理の働く「場」の中に
人もまた「自然にあるものの一つ、あるいは一部」として
存在しているのです。
もちろん、ここでいう存在というのは
物理的、機能的な肉体だけのことを言うのではなく
もっと形而上的な精神活動の領域までも
含むところの人間存在のことです。

とにかくそれは
『自然の中にあるもの』なのです。

人が苦しくなる時というのは、
もしかすると、
「自我」が過度に
自然の範疇から外れた時なのではないか
と思えなくもないのです。

「自我」は社会構造に先立つものですが、
「本当の自分という存在」に先立つのは
この宇宙という環境であり、
またその摂理が先立って
「本当の自分の存在」もまた
存在足らしめるものだと思えます。

「自分の存在」が先立つところの
基底となる場所を、
「摂理から切り離された社会」に求めることは
自然という久遠の観点から見れば
実に移ろいやすい土壌であるわけで、
ここに自我の根を張ることは
苦しみの元であるのではないか、ということ。

まして、移り変わりがとてつもなく早くなった
今の時代にあって、
このような「自我が寄って立つところの社会」という
土壌に「自分の人間存在」の根を張るということが
どういうことなのか、
想像に難くないでしょう。

こんな時代、こんな世の中にあって、
心が苦しむのなら、
それは自身の内的な
「人間存在そのもの」が
「社会的に矯正された自我」の
外側に出たがっているからなのかもしれません。

本当の意味での、
自然の摂理に則った「我」の領域があるのです。

今、どこからか風が吹くように。
明日になればまた東から陽が昇るように。
月が28日周期で満ち欠けするように。
夏が過ぎ、秋が来て、冬が来るように。
そして誰かと自然に恋に落ちるように。
それらと同じように
自分は存在するのです。
ただただ、それだけ。

もしかすると古の人はこの「我の領域」を
「真我」と呼んだのかもしれません。
古来より人はここをユートピアとして
目指していたのかもしれません。