赦せば怖くないのだけれど、

「赦すこと」というのは
結局「忘れること」なのでしょう。
いや、「忘れる」というより
「水に流す」というべきでしょうか。

そう考えると、
たいていの多くの人が
「水に流せない何か」というものは
大なり小なり心に抱えているわけで、
そこに「赦すこと」の難しさと
それの美徳の意味の説得力があるのだろうと思えます。

「正直気分は悪いけれど許す」というのは
赦すとは言い切れません。
なぜなら、
それは自分の中の気分の悪さを
「理性で抑制している」に過ぎないからで、
理性の境界のさらに奥の内的世界では
何も「赦したことにはなっていない」からです。

右の頬を殴られたら
左の頬を差し出すというのは、
おそらく
殴られたことを「赦す」からできるのだろうし、
赦して水に流し、忘れることができるからこそ、
「左の頬を殴られる恐れ」を
持たなくても済むのでしょう。

そう。
「赦す」とは
人の罪を放免にすることではなく、
受けた仕打ちを忘れることで
それを「恐れない」ことに
その本質があるような気がします。
もちろん、
恐れないこととは
打ち負かすことや制服することとは
全く違うものです。

「まっさらであるということ」と
表現できる気がします。

「赦す」状態というのは
「恐れない」状態のことであるのだから、
そこに「恐れだった対象」は
恐れだった対象たり得なくなるという意味で、
そうした事象は
「まっさらである」のであり、
その罪も罰も存在しない状態こそが
本質であり、理想であり、
それそのものの実践は
故に「赦すこと」と言えるのだろうということ。
ここに至って人はようやく
永遠の安楽の中へ入っていけるのでしょう。

とは言っても、
人間、そこまで物分かりのいい生き物ではありません。
故に苦悩するのですが、
その苦悩こそが
「今、自分は人である」ということの
証なのだとも思えるのです。

逆に言えば、
今、人として自分が存在する以上、
「赦すこと」にまつわる葛藤というものは
必ず付いて回るものなのだから、
下手に利口ぶって「許した」と言っても
それは「赦した」とは言えず、
汚いものに覆いをかけて不可視化しただけで
根本的な「不愉快の原因」は
解決しないままとなってしまうのでしょう。

こうやって棚上げにしてしまったものが
どんどん溜まってくると
世の中というものは
「許せないもの」だらけになってしまい、
そうして世界も歪むのです。

心の平安のために「赦す」前に
まず、解決して手放さなければならない
諸々に埋もれて、世界はどんどん重くなるのです。

その重石を取り除こうと
様々な知恵を求めますが、
それ自体が新しい重石となって
根本にある重力の中心は
どんどん隠されて、その所在は
わからなくなっていくのです。

程度の差こそあれ、誰もがそう。

けれど、
やってきたものは
いつかは流れて消え去っていくもの。

人という存在は
内的にも外的にも、
流れ得ず、留まっている存在なのです。

他人や世界がどうこうという話ではなく、
たとえそれが苦しかろうとも、
『今、この時、この場所に留まっているのは自分の意思』
であり、
また自分の中にある
『水に流せない何かしらを抱いている結果』
でもあるのです。

何もかも水に流せて
完全なる赦しの境地に達したのなら、
すでにそこにいるのはもう
人ではないはずです。