自由とは認識の深さである

人は常いかなる時も
自由であるべきであることは
当然のことではあります。

しかし、
「人の根源的な自由」と、
「エゴの表層的な自由」とでは
その趣は全く違うものとなります。

表層的なエゴにとって自由でなりふり構わず、
と言うとき、
実は人は「特定の自由」に縛られる
不自由な存在となります。

簡単に言うと、
我欲にとっての自由は
かえって人を不自由にさせると言うこと。

「特定の自由」とは、
我欲を満たすことによって
全体の秩序を乱すことを是とする自由のことで、
全体の秩序か乱れることによって起こる
不都合に自らを縛ってしまうが故に、
人は不自由になってしまうのです。

例を挙げるなら、
最近のことで分かりやすいそれは、
「ポケモンGO」でしょうか。

ゲームやりたさに、
モンスターをゲットするために、
プレイヤーは無秩序に出歩いた結果、
とうとう、それによる死者まで出る始末。
それによって、内外から規制がされ、
このゲームの本来の面白さを
楽しむ自由は制限されていきます。

好きにゲームをする自由は奪えません。
けれどそれによって生じた不都合は
ゲームをするプレイヤーによって受けなければなりません。

つまり、無秩序な自由を選んだ為に
大局的な自由が奪われてしまった好例でしょう。

自分の部屋を汚したり壊したりしたところで、
誰もそれを咎めませんが、
それによって汚れたり壊れたりした部屋で
過ごさなければならないのは
結局、自分なのです。

太古の東洋の人が「カルマ」と呼んだものとは
おそらく、こうしたもののことを言うのでしょう。

宗教的に語られる
思考停止状態の教義として言われる
罰としてのそれではなく、
「カルマ」とは
完全に行為に対する結果に過ぎないのでしょう。

部屋に美しいものと、そうでないものがあるように、
社会にもそれは当てはまるし、
人の心のにも同じことは言えます。

美しければ美しいし、
そうでなければ、そうではない。
掃除しないまま放っておきたいのか、
壊れたものを治したいのか。
自分はそれを好きに選べるのです。
ただ、どうするにしろ
誰かや何ものかが
それをしてはくれません。

どうするかを決めるのは
あくまで自分自身なのであり、
それが自由意志の本質なのです。

冒頭にあるところの、
「人の根源的な自由」と
「エゴの表層的な自由」との違いは、
表層的な自由の場合のそれであれば、
いわば正しい部屋の扱い方を知らない自由であり、
根源的な自由とは
どうすれば部屋が長く綺麗に維持されるかを知っている
自由さであるとも言えるかもしれません。

故に「根源的な自由」の内に入ると言うことは、
間違いは自ずと正されるし、
間違い自体、犯すことさえも成立しない世界の
内側に入ると言うことであって、
そうすれば古来の人が言うところの
「カルマ」と言うものの存在も
幻なのだと気づくでしょう。

ただ単に、
部屋の正しい扱い方を知らないから
不自由で苦痛に感じている。
それだけのことなのですが、
人の心の複合的な集積である
社会が閉塞していく素因となっているのは、
多くの人が未だ、
「認識の自由さ」において
非常に狭い世界観を生きているからである、
とも言えるのかもしれません。