自然だって環境を壊すじゃないか

先日、「人間の存在そのもの」自体が自然物、
つまり元々、自然に存在するものであり、
肉体的に生きることも、
精神的に考えることも
自然現象のひとつに過ぎないという趣旨の記事の
延長としての話。

例えば人が自然を壊して災害になると、
それは人間のエゴが起こした人災であると
とかく文明社会に対しての批判が出てくるものです。
僕も、現代の人間文明に対して、
批判的な記事を書いたこともあるのですが。

しかし思うのは、
自然を壊すのは「人間だけ」ではないのだということ。

大地震は人間の力をはるかに凌ぐほどの
破壊力を持っていますし、
火山にしろ嵐にしろ、
ひとたび自然が牙をむくと
有無を言わせないほどの強大な力を持って
襲いかかってくるのも、また自然の一側面なのです。

自然、あるいは環境の姿を変えてしまうことができるのは、
人間も自然も同じこと。
と同時に、人間の場合は大抵が
エゴのなせる所業によって引き起こされる
「人災」であって、
「天災」と人が呼ぶ、抗えない不可抗力のような
自然現象には自我がないとも言い切れないのです。

それどころか、
それに逆らうことさえできないほどに
明確で正確な自然の法則の存在自体が
考えようによっては
そもそもエゴイスティックでさえあるのです。

もし今、人間が自然環境を
自らの手で壊すような振る舞いを
しているのだとすれば、
おそらく自然環境は
人間にこれらを壊すことを
許容していると言えなくもありません。

何かしらの理に適っているから
人は「万物の霊長」と奢ることを
許されているのではないか、と。

あちこちで災害が起き、
信仰を嗤い、
戦争をやめず、
経済は強欲な人間を富ませ、
命の価値はどんどん低くなる。

そんな人間の社会の行く末が
どのようになるにしろ、
自然の摂理はそういうものの結果さえ含んで
摂理の思し召すところへ向かっているのではないか。

人類が自然にとって
異物であるかということなど、
おそらく、はじめから決まっているのでしょう。

大自然という観点から見れば
取るに足らないほどに小さく狭い
人智がどう足掻こうとも、
全ては自然の叡智に集約されていくのですから。

ある意味、人という存在は
この自然の叡智に逆らうが故に
人たらしめる部分はあるのでしょう。
人の世というのは
それに逆行して存在しようとする者たちが
溜まっている世界なのでしょう。

故にここは、
人が住む世界というより、
人智という狭苦しいのぞき穴から見える
限定された視界、と言えるのかもしれません。

そののぞき穴こそ、
閉じてもあり、開いてもある、
そしてまた
その両方をつなぐ穴なのでしょう。