欲は劣等感が刺激する

人には様々な「欲」を持っていますが、
生命を維持するための「基本的な欲」
つまり、食欲とか性欲とか、眠りたくなる、とか
そういう「生理的な欲求」は別にして、
およそ人が社会生活の中で「欲する」物事というものは、
大抵が自分の中の劣等を補おうとすることによる
「欲」だったりします。

例えば「食べる」ことについて
このことを述べるなら、
そもそも「食べる」という行為は
胃袋を満たそうとする欲によって
叶えられるわけですから、
お腹がふくれればそれでいいわけですし、
生きながらえるだけの栄養を摂ることができるなら
それでいいわけなのです。

これが食欲。

けれど、ここに
「より良いそれを」となってくると
話は変わってきます。
そもそも、
「それより良いもの」とは
何の定義を持って、そうであるというのか。

自分に合ったもののことを言うのか。

自分に合ったものを求める。
これは「基本的な欲(食欲)」としても
いいかもしれないでしょう。

ならば、
「他の人より良いものを食べたい」
これはどうでしょう。
これは違うことなく、
社会生活の中で生み出された欲求だと言えます。

食欲に限らず、これは
性欲にも言えることでしょう。

これらは罠であり、
幻でもあるのです。

「人より良いものを」
おそらく、こう思った時点で
すでに自分という存在は
卑小なものであるはずです。

人は何かについて抜きん出ようとする欲する時、
その始まりは常に
それについて矮小なる存在であるものだからです。

誰もが同じく等しい、横並びの世界から
上へ抜け出そうとする人は、きっと存在しません。

けれど生きていると、人生のどこかで、
誰かが他の人より良い仕事に就いただとか、
誰かが他の人より豪勢な食事をしているだとか、
誰かが他の人より素敵な恋人と結ばれたとか、
そういう話を見聞きすると
横の世界が、途端に傾き始め
縦の世界に変わるのです。
そしてこの時に人は、「社会に適応した大人」になるのです。

けれど、そうして
上へ行こうとする時、あるいは
上があると認識した時、
さらには上を見た時、
人は等しい世界から
「低い世界」へ突き落とされるのです。
悪いことに、この「低い世界」は
登っていっても上には行けない世界でもあります。

なぜなら、どれだけの労力を費やし、
そして、そこから何か、
例えば物質的なものだったり、
立場だったり、条件だったり、環境だったり、
何かしらを勝ち得ても、
どれだけ勝ち得ても、
「低い世界」の根源は
自分を卑下する心、劣等感に由来するものだから、
この卑小なる世界から抜け出すには、
己の中の劣等を癒す必要があるのです。

そして、その癒しは
必ずしも「求めるもの」の中に存在するとは限らないのです。

「社会生活から生まれる欲求」というものは
手に入って満ちるものではないのだということ。
どれだけ喉から手が出るほどに欲しいものがあったとして、
それを手に入れれば、
次の新しい何かを欲するようになる。
これが「社会生活から生まれる欲求」であり、
経済社会はこの欲求を煽ることで成り立っているのです。
次から次へ、欲しくなるようにできているのが
「社会」なのです。

欲求を煽るということは、
心の中にある「劣等感」をくすぐって
誘惑するということでもあります。

「他の人より良い暮らしを!」と。
あるいは、
「いや、そこまでは望まなくとも
少なくとも人並み程度には」
と思うことさえも、
すでに内なる劣等感の仕業であるのでしょう。

しかし、こういう
暗黙のプロパガンダの
奔流の只中にいては
己の中の劣等感は死ぬまで消えないと思えます。

社会生活の中で煽られて湧き上がる
「欲求」というものは、
そのほとんど、いや、もしかするとその全てが
「自分の劣等感」が作り出した幻影なのです。
そしてその劣等感さえも
社会や経済が作り出した幻影なのです。

人はこの幻影の蟻地獄のような渦に呑まれて、
いつしか本当に卑小な存在へと堕ちてしまったのです。

蟻地獄は、
その中に埋没していったほうが
楽でいられるのだと、
幻たる劣等感に対して巧妙に言いくるめて
そこから人を抜け出させないのです。

それが「欲求」に負ける怖さ。
劣等感を癒すことを後回しにして、
目先の結果で応急的に満たすことで、
人は自ら進んで「劣等の檻」の囚人となるのです。

要するに、
人生というものは
なんでも得ようとして「身につける」と
その重さで沈んでいってしまうのだと思います。
逆に言えば、
手放していくと次第に
浮かんでいけるものでもあるのかもしれません。