喜怒哀楽、捨てちゃだめ

よく、「好き」の反対の意味は
「嫌い」ではなく「無関心」だと言われますが、
これはよく言ったもので、
さらに考えてみれば
心象の極性というものは
「好き」>「無関心」<「嫌い」
という構造を持っているのだろうと思えます。

つまり、ベクトルとしての対義の関係性あれば
「好き」と「嫌い」ですが、
エネルギーの有無という軸で見たときの対義は
「好き(嫌い)」と「無関心」なのでしょう。

「認識を持って存在するもの」、
要するに人の心そのもののことなのですが、
それ自体の実体は何かと問うなら
それは発せられるエネルギーなのだと思えます。

様々な質をもって刻々と変化するする
エネルギーの塊とは
それ即ち「心」のことでもあるのでしょう。

生きるということはエネルギーを発すること、
つまり「力」そのものなのです。

そう考えれば、
人は生きている限り
決して「無関心」という
エネルギーの全くない、ゼロの状態には
ならないのだと思うのです。

好きでも嫌いでもいいのです。
そのような何かしらに
「突き動かされて」人生を切り開いていく力こそが
生きた人間にとっては重要なことなのです。
そう、生きているなら。

嫌いな物事が無いということは、
それすなわち
大して好きな物事も無いはずです。

時に心が疲れきって、
何に対しても興味がなく、
感情も平坦になる時(世にそれは抑うつと呼ばれますが)、
これは心のエネルギーが
弱っている時のことを言うのだと思えます。

それでも心が発振を続け、
「生きているんだと」
揺らぎ続けているのなら、
愛や憎しみだとか、
同じ一つの心のエネルギーとして人は生きて、
存分に喜怒哀楽すべてを
味わった方が良いのだと思えます。
それこそが生きる意味。

生きる人の心というものは
振り子のようなものだと思います。
振り幅こそが幸福なのではないでしょうか。

揺らぐことこそが
人の心の本質。

幸せであろうが、
そうでなかろうが、
完全に平坦な心持ちの状態で
「心のある人の体験」などできないのです。

今、目の前の苦悩に
慟哭し、あるいは嗚咽し、
のたうちまわるような
やるせなさも、
「心があるから」沸き起こるものなのです。

心を持たない人間には体験できない、
「心を持つ人」である証拠がそこにあるのです。

それは「無関心」では
およそ知りえぬ境地であると同時に、
揺らがない人には見ることのできない
色とりどりの世界がそこにはあります。

喜怒哀楽、つまり、
好きなことも、嫌いなことも、
どれでもいいから、いや理想は全部。
捨ててしまわずに、
最後の最後まで持ち続けて
人間であることをやめてほしくはありません。


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