誰しも最初に自分が救われる

愛というものは
一人では実践できません。

逆に言えば、
孤独なのは愛を実践していない
結果なのかもしれません。

孤独というものは、
もちろん個人の生き方として
否定すべき理由はないのですが、
それでもやはりそれは
少し人の本質からは遠くなるような気がします。

その昔、日本や西洋、あらゆる国々で
宗教的な理由から
隠遁生活を送る人はたくさんいました。
さしずめ
日本で言えば出家して山にこもるだとか、
キリスト教で言えば
修道院に入るとか、
そういう人たちは昔からいましたが、
僕は、彼らが生涯をかけてそうすることで
果たして人の存在、あるいは人の心や精神の
本質に到達できたのかという点において、
いささか疑問に感じなくもないのです。

もちろん、宇宙規模に広がる
内的世界の探求を始めると、
ある時点では
世俗からの隔絶が必要に感じることも
あるかもしれませんし、
おそらく先人の孤独な隠遁生活を送った人の目的は
そこにあったのでしょう。

けれど、そうして少しずつ
真理というものを知っていくほどに、
隔絶された孤独の世界の中にこもることが
いかに真理からかけ離れたことであったかという
自らが招いた矛盾に目を背けることは
できなくなるのではないでしょうか。

情熱を伴った愛情こそが
自分の見ているものであり、
自分の見ているものとは
逆にそういう感情を伴ったものであるし、
それを感じることなく送る人生というものは
まさに自分の内的宇宙に
蓋をするようなものでもあるのでしょう。

ゆえに、
今垣間見ている孤独というものは、
自分が愛を発し、実践していない
その結果であるのだろうし、
実践しないから、愛も必要ではないのでしょう。

外に通じる内的世界には
重い鉄の扉があって
しっかりと鍵の掛けられ閉じています。
この扉は自分の意思でしか
開けることはできません。

愛に生きるということは、
単純に「利他」を生きることを
言うのではないのだろうと思うのです。

まずは自分を幽閉さしめる
心の扉を開くことこそが重要なのではないか。

「利他」というものは
扉を開いたそのあとに
副次的についてくるものであり、
自らの心を閉ざしたままの「利他」から
何も返ってくるものはないし、
そしてそれは「利他」の至上とされる
世界の救済へ到達することは不可能なのだとさえ思えます。

閉じた世界を生きるものにとって最も必要なのは
おそらく、
愛の通り道を作ること。

極論を言ってしまえば、
自分の意思で心の扉を開け、
愛を実践するための外的世界へ
通じる道を作るだけで、
世界は一瞬に救済されるといってもいいくらいに。

荒涼たる世界で救われる
まず最初の一人というのは、
必ず自分なのです。

そこから全てが変わるのだから。


カテゴリー

コメントを残す