オーガニックな世界

いつかやがて、
時代はオーガニックなものを
望むようになるのだろうと感じています。
あるいは、今後望まれなかったら
本当に世の中、社会も人も
真剣に滅ぶと思う・・・。

オーガニック、
ここでは大雑把に、
「より自然に近いもの」くらいの
意味合いにとらえていただきたいのですが、
つまり人は
「より自然に近いもの」を欲するようになっていく、
ということで、
おそらくその潮流の始まりは
ごく静かなものなのではないかと思えます。

なぜなら、
最初の変化は
人の個人的な意識から始まるからです。

当然、商業ベースの宣伝などで
流布することもありません。
商業ベースの宣伝や情報に左右される世界を生きていては、
おそらく「オーガニックの真髄」に
到達することは難しいかもしれません。

個人レベルで
「ああ、やっぱりオーガニックなもの良いよね」と
『ふと気づく』のでしょう。

ゆえに、外からの情報に左右される世界を生きていたら
永遠に絶望というわけではなく、
万人、誰しもに、いつだって
そういう気付きの機会はもたらされているはずです。

なぜなら、
自然であることが、
最も自然であるのだから。

個人的な意識が変わると
日常の振る舞いが変わってきます。
例えば当然、買い物ひとつにしても
消費動向が知らないうちに変わるのでしょう。

こうして人の衣食住が
オーガニックになっていくのです。

誰に命令されたわけでも、
流行りだからでもありません。

おそらく言葉では説明できないような次元で
「不自然なもの」に対して
肌に合わなくなっていくのです。

そしてそれは
「不自然なもの」を
刺激のある良いものだと思い込まされていた
大量消費の価値観からの脱却へと
繋がっていくのでしょう。

大量に消費させて利益を得ようとする
価値観が廃れていけば、
人の生活も自ずとスローライフになっていきます。

長寿社会になればなおさらに
スローライフが推奨されていくはずです。
高齢の衰えにとって
大量消費の価値観は
疲弊以外の何ものでもないからです。

そもそも、こうしてあれこれ語る以前に、
不自然な物事に心身を曝していれば
遅かれ早かれ
人の身も心も疲れていくのは当たり前だと思うのです。
なぜならそれは、
川の流れに逆らって川を上っていくような行為だから。
あるいは強風の風上に向かって歩いていくような行為とも
言えるでしょう。
枯れ葉が木から離れれば地面に落ちて土に還るのが
世の理なはずです。

行き着く先は疲弊だけでしかない。

そういう根本的なことに対して、
これまで人はいかに
無知で無頓着で、
目先の物質的な利益ばかりを
追求し続けることでその感覚を麻痺させて
『人も自然のシステムの一部である』
という、よくよく考えてみれば
実にごく単純なことを
すっかり忘れてしまっていたことに気づくというのが、
オーガニックな世界への始まりとなるでしょう。

これは近代文明の技術を
すべからく捨て去って
原始時代の生活に戻るという意味ではありません。

近代文明の中で
オーガニック、つまり
自然本来のあり方を実践するために
科学技術はあるのです。
利益や収益を上げるための科学技術は
疲弊して、人の心を過たす
技術の使い方です。

科学技術が
本来の理念に立ち返ることで、
地球に優しく、また同時に
とても便利な世の中というものが実現します。
科学技術は、今以上の叡智を手に入れるには、
このステージに立ち入らなければならないでしょう。

科学技術が本来の理念を取り戻すには、
社会そのものが優しくならなくてはいけません。
先進社会がさらに成熟した、より良き社会へ発展するには
このステージに立ち入らなければならないでしょう。

そして、それらのステージの入り口に
疲弊しか生まない世界を
「もう十分、懲りた」と痛感した人たちがいて、
彼らから順番に意識の変容が始まるのです。

おそらく、
この世界の最も大元には
絶対的なテンプレート(雛形)が存在して、
その型を映したものが宇宙であり、
その宇宙を映したものが自然であり、
そしてその自然の形を映したものが心であり、
心を映したものが人であり、
人の姿を映したものが、その集合というべき社会なのでよう。

テンプレートに適合した生き方をすることが
最も自然で、楽な生き方だと思うのです。
そのテンプレートのことを
オーガニックと呼ぶのでしょう。

そして今、
その自然のテンプレートに
適合して生きようとする人と、
自然の形を変えてまでして
目先の利益を求める人とが、
徐々に分かれ始めてきているのかもしれません。

もちろん、
誰にどちらに行けと指図されるものではなく、
自分から望んで、
自らの肌の合う世界に向かっていく、
そういうスタートの時期を
世の中全体が迎えたように感じます。