求めているうちは多分辛いかもね、だって痛むでしょ by 自分

『求めているうちは多分辛いかもね、
だって痛むでしょ』

鮎沢郁弥「湖畔にて」より

(笑)

拙作のこの曲は
恋愛の歌ではありますが、
結局、人間生きていれば
求めることは、あるいは
求める意思を持つことというものは、
突き詰めてゆけば
辛いものであるのかもしれません。

まるで絵に書いたかのように、

「自分には夢があります!
それを叶えるために
ひたむきに信じて、純粋に、
そして前向きに
頑張るのです!」(白い歯キラッ)

こう言ってしまえることに、
一抹の胡散臭さを感じてしまうのは、
もしかすると僕が歳をとったからかもしれない・・・。

というか、
こういうレトリックを信じてしまう
純粋な人をうまく踊らせて、
この世の支配層が利益を上げているのですが。

おじさんが教えてあげよう。

そういうポジティブさは
ネガティブさを押し隠すための
から元気なのだよ、と・・・。

可愛くないけれど・・・(笑)

僕も、そこそこ長く生きてきましたが、
こういう求め方をして
何かしらを実現した人を見たことがない。
逆に、自滅していった人は多くいるけれど。

ゆえに、自ら求めている時というのは、
求めることで自分をどんどん追い込んでいってしまうし、
それがかえって心を疲弊させる要因に
なってしまうのだと思うのです。

「ここまで純粋に追い求めた自分は
必ず想いを叶えられるはず」
という自分にがんじがらめになってしまうのでしょう。

人はそういう時が一番、
心が傷むものなのだろうと思えますし、
その隙間に人生を踏み外す
目に見えない罠が仕掛けられているもの。

人が求めるような何かの夢が叶う時というのは、
往々にして、待ち構えている時ではなく、
全て出来うることをし尽くした後、
完全に自分が「無」となった時で、
あるでそれは降って湧いたかのように現れたりするものです。

くるぞくるぞと言われつつもなかなか来ない
大地震のようなものなのです(防災は怠らないように!)

なぜ、危ないと言われる大地震が来ないのか。
理由は皆が皆、それを待ち構えているから。
天災は忘れないとやってこないのです。

「無」というのは、本当に「無」です。
求めていることを、
あるいは求めていた対象ですら
忘れている状態のこと。

希望が叶う時という特殊なシチュエーションならずとも、
人生が動く時というのは、
大抵がそのようなものだと思うのです。

人は生きていれば、
ものであったり、立場であったり、人であったり、
欲しいものを求めて生きてしまいがちですが、
なぜ求めてしまうのかといえば、
それすなわち、
自分がそれを持ち合わせていないと感じるからで、
実は求めるほどに、
持っていなことを痛感する羽目になるのです。

本当は、何も求めない時、
自分はもっとも自分らしかったりするものなのです。
また同時に、満たされている時は
事実、大したことを求めてはいない。
これが真理です。

そして否定する思いがないから、
その分、楽なのでしょう。

けれど、その「楽の境地」は
考え付く限りありとあらゆる
否定を見て、判断し、体験して
そしてそれを
自分の中で昇華させてやらないと
到達できない「楽の境地」でもあるのでしょう。

おそらく前述の「単純な前向きさ」の違和感は
ここにあるのではないかと感じます。

「楽」へ至る道は
「苦」を否定する道ではないということ。
「苦」を「楽」へ歪曲することなく
ありがままの「苦」として肯定してようやく
「楽」への道は開かれるのだということ。

すなわち、
冒頭の僕の曲の歌詞の続きにある、

『求めているうちは多分辛いかもね、
だって痛むでしょ
思い込めばそれも甘いと感じるの
けれどそれは毒薬だから』
by 鮎沢郁弥

(笑)

ということなのかもしれません。

要はバランスなのだと思うのです。

日向と影。
熱いところと寒いところ。
高みと低み。
右と左。

どちらも全体を構成する
エッセンスなのだと理解することで、
自ずと「虚無」は「充実」へと
転換できるものなのではないでしょうか。
この両者の本質は
全体の実像を表すための概念に他ならないのですから。