苦悩を捨てるな!

先日の「戦争と平和」について
取り上げたお話の中で、このような話をしました。

本当の平和な世界というのは
戦うことを選ぶこともできる世界だ、と。

平和ボケと嗤われようが、
平和であれば無条件にそれで良いのだとは
思えない、ということ。

確かに殺伐とした
破壊や殺戮の蔓延る世界よりは、
誰も争う人の存在しない世界の方が
良いのでしょうけれど、
果たして人は、
いや、もっと身近な、
自分の認識の及ぶごく近い範囲の
己自身の生活の中で、
平和ボケと笑われるような世界というよりは、
むしろ殺伐とした世界を生きてはいないでしょうか。

何が何でも、一切の争いのない
平和な世界を渇望するのは
おそらく、
争いの影響下にあり、
そこから抜け出たくても抜け出せないが故の
見果てぬ切望なのかもしれません。

けれど、先日の記事の通り、
平和の実践というものは
常に争うことを選択として持ちつつも
それを選ばないことに
その本質はあるのだと思うのです。

それでも争うことを嫌うのであれば、
それは争いのある世界の領域の範囲での
逃避であり、回避なのでしょう。

平和を望みつつ
争いの許される世界の中で、
それを否定するということは、
そのとき人は否定の世界を生きているのであり、
その世界とは争いの世界の
土壌から抜け出せていない
弁証にもなるのではないでしょうか。

真の平和な世界というものは、
常に争いを抱きつつも
それを選ぶ、つまり実践できる世界のことで、
望むような平和な世界から
争いが乖離していくという
質ものではないのだろうと思うのです。

もちろん、これは平和や争いという概念に
とどまる話ではなく、
この世界のあらゆる二元性の軸で論じられる物事
全てにも言えることだと思います。

苦と楽の概念だってそうです。

本当の楽というものは、
苦を知りつつも苦を選ばないことによって
得られるのです。

そしてそれが賢さなのです。
また同時に、
それが本当の自由でもあるのです。

争いは争い、苦は苦、
もちろん、悲しみも絶望も、嘆きも、
怒りも、恨みも、妬みも、
それらを忘れた人は賢者とは言えません。

それらを捨てることなく
成長していく先にこそ、
全智との統合であり、
本当の叡智があるのですから。

悩みや葛藤は捨ててはいけないのです。
それらは人が成長していくために
持っていなくてはなりません。

捨ててしまうことは開放ではなく、
逆に不自由への没落なのでしょう。

喜怒哀楽、日向と影、
高みと引くみ、寒さと暖かさなど、
その両側があってこそ、
そしてどちらにでも
行くことのできる自由を
実践できる世界というのが
理想郷なのだと思うのです。

人が成長、進化していけるその先は
どこまで果てまで行っても
ネガティブの素因は一緒についてくるものなのです。