自分で選び取る大切さ

やはり何かにつけて
「自分の意思で選ぶ」ということは
すごく重要なことなのだろうなと思えるのです。

なぜなら、
人生の「今」というこの瞬間は
一つ一つが
自分の意思で選んだことの
まぎれもない結果だから。
あるいは、
「選んでこなかった」という選択ですら
結果として「今ここ」にあるのだから。

そしてさらに、
瞬間ごとの選択の蓄積こそが
実に正直な自分自身の姿でもあるのです。
自分から見て外側の世界に対しても
そして内側の世界に対しても、
自分の自我というものは
漏れることなく
自分の過去の選択の蓄積で形成されているのです。

何も難しいことはないし、
順を追ってじっくり考えていけば
それはまぎれもない事実です。

「自分の意思で選ぶ」ということは
行き着くところ、
自分の表明なのです。
自己表現なのです。

自由で制限のない自己表現というと、
多くの人は何かしら
自分の人生において外的世界に
影響を及ぼす行為、
外的な結果の世界に何かを残す行為、
そう捉えているでしょう。
けれどこれはともすれば
非常にエゴイスティックな思想に
発展しかねない思い違いでもあると思えます。

音楽を作る。これも自己表現ですが、
聴きたくない人から、その人の時間を奪って
聴けということ、あるいは
CDなどを作って、高いお金を払って買えという。
それは善なのでしょうか。

昔から僕自身が言っていることではありますが、
何か人助けをするという自己表現には
助けられなければならない境遇の人が必要になってきます。
人助けが逆に不幸な人を作るということもあるのですが、
これについては善と言ってしまっていいのでしょうか。

突き詰めれば、
何かしら外的な世界に向けて
自分を表現するということは
多かれ少なかれ他者を巻き込まずにはいられません。

外的世界を自分の都合で引っ掻き回すことを
「自由な自己表現」と言えるのでしょうか。

外的世界に何かしらの結果を残す
という意味に限定してしまうと、
そうしたジレンマに陥ったりするものですし、
誰もがそういうジレンマを
見ぬふりして善人を嘯いていたりもするのです。

ジレンマを解決できないまま
この瞬間に自分の意思の選択をするから、
矛盾をはらんだ結果しか生まれないし、
こうした矛盾が蓄積すれば
世界全体も歪んでいくのでしょう。

自己表現は悪だとは言いません。
これは善悪、どちらにでもなりうるし、
どのどちらなのかを「選択している」のは
まさしく自分なのであり、
「こうだと思う」自分なのです。

ゆえに、自分の意思を表現するということは
外的世界に結実する以前の
「自分はこう選ぶ」という選択の意思の段階で
すでに始まり、そこで選んだような通りの
自分や外的世界が完成しているのです。

何かをする前の選択した時からすでに
因果律の車輪を回しているのです。

自分はこうしたい、こうありたいという
表層的な意思の領域から、
その奥にある
自分はこうだと思っているという選択の
さらにさらに内奥の領域に至るまで、
人は常に絶えることなく、
何かしらを選択し続けています。

自分を満たすだけでも、
また他者を満たすだけでも偏ってしまう。
受け取っているのか、奪っているのか。
助けているのか、縛っているのか。
生かしているのか、殺しているのか。

その選択は
常にバランスによって成り立っていて、
人はその釣り合う位置を知らないがゆえに
永劫に苦しみの種を持ち続けているのかもしれません。