質量のある夢の中で、

人は皆、質量のある夢を見ている。

おそらく、人が考えるような
「客観性」というものは
全くもって幻想に過ぎないのでしょう。

この世界は「客観性」を礎にして
構築されているのではなく、
各々の「主観性」の集合であり、
ともすれば「他者の主観」の存在すら
無いのかもしれないのです。

なぜか。

それは至極当然、
この世界の中心はいつだって自分にあったし、
そこに意味を与える権限を最終的に持つ存在は
自分以外にありえないのだから、
結局、現実自体も
自分の枠を決して出ることはないし、
抜け出てもなお
自分の認識の枠はまるで影のように
自分という主体の中心に
ぴったりとくっついてくるのが「主観性」であり、
これから逃れることは不可能なのです。

認識という一点において「主観」というものは
現実と夢幻、あるいは自分の想像、妄想さえも
区別することなく、
「主観」の名において、
それは自らが生み出した「認識しうる体験」なのです。

そして「主観」によって認識される
この実体のある世界も
「主観の名において」意味付けされた
取るに足らない妄想と
実際の認識とは
全くの等価のものであるのです。

ゆえに、
この実体のあるこの世界自体そのものよりも
それを認識する心の方が先立つのです。

そして自分の心が思うそれが
実体の世界に見えてくるのでしょう。

今、自分が考えるような
「実像の世界」は突き詰めて考えていけば
結局のところ
自分がそうだと思った世界に過ぎないのだから、
この世界というもの自体おそらく
『質量を持った夢』なのでしょう。

そこに気がつけば、
もう怖れることはないのでしょう。
わざわざ自分から
傷つくための世界じゃない。
痛みも悲しみも、そして憐れみも、
すべては自分の認識が作り出した夢に過ぎないのだから。

いつも中心にあるのは
自分の主観という認識だけ。

苦しむことさえ楽であると知った時に、
人は自身の本質を垣間見えるのかもしれません。

太陽が照る時は
花が咲き、鳥はさえずり、
日が暮れたら
夜風に当たって月でも眺めよう。

そんな気持ちになれるための時間というものは
人生の中で、以外と短いのでしょう。