何のために愛するのか?

愛というものは、
およそ、その愛すべき人から
愛すべき一面を見出す作業であったり
するものですが、
その愛すべき一面というものを
相手が所有し、
また相手から得られるものだと錯覚することで、
愛は自由を奪われ、
やがて苦しくなってしまうものなのかもしれません。

往々にして人は
そういう愛情の扱いや認識をしているから、
出会いと別れを繰り返しもするのでしょう。

そうした人同士の関わり合いの中で、
相手に「愛すべきもの」を求めていくと、
やがてそれは
「愛の幻影」に過ぎなかったことに
気がつく時がやってくるのだと思います。

結局のところ、
「愛すべきもの」であると価値を見出しているのは
あくまで、自分自身なのです。
つまり、相手が与えてくれていると思っていたそれは、
実は自分が、自分の認識において
相手に見ていた「愛すべきもの」であり、
目の前にいる特定の「その人のこと」ではないのです。

一見、その考えは非常に
独断的でドライな考えのようにも見えますが、
それによって自分も相手も
自由になり、そのうえで愛し合うのであれば
それは実に成熟し、自立した
愛の形となりうるのではないかとも思えます。

いつだって愛すべきものは
自分の中に存在しています。
ゆえに愛は与えられなくとも
自らの意思で実践できるものでもあるのです。

そしてそれが愛の本来の姿なのではないでしょうか。

ただ、それを愛すべきものなのだと
知るだけ。
納得するだけ。
表現するだけ。

何にために愛するのか?

愛を発露させる根元にこそ
自分自身があることを知るために。
それ以外に目的はないほどに。

そのいたってシンプルな原理に行きつくために
人は、愛する人と分かつ性を
負っているのかもしれません。

愛の根元を求め、
自分をどこまでも真正面に見つめる。
そこにある自分の姿が
真実であるほどに、
愛もまた真実に洗われ、
まるで鏡にでも映したかような
もう一人の自分を
見つけることができるのかもしれません。

人が考えるよりもずっと、
「人が愛する理由」
奥が深いのだと思うのです。