おぅ!今日から火の鳥になるわ(笑)

かの漫画家、手塚治虫さんの代表作に
「火の鳥」という作品があります。

内容に関しては今更説明しませんが、
この物語の中でキーとなるのが「火の鳥」
まあ、その絵姿はたいていの人が知っていると思います。

作中の中で火の鳥というのは
エピソードによって若干のブレはあるのですが、
肉体のある生物ではなく、
体を持たないエネルギーのようなものとして
登場します。

基本的には「人とその人の業」のようなものを
見ているだけ、傍観者という立場です。
(まあ、本当に見ているだけだと話が進まないので
毎回、人間に少なからず介入してくるわけですが・・・)

実際の自然の中を生きる生物というものも、
かの作品の「火の鳥」のように
やはり自然の現象に対して
傍観者であるのだろうと思います。

傍観者であり、かつ
ありのままで生きているのが
人間以外の生き物だと言えるでしょう。

これを人間がすると
なぜ身勝手な生き方になってしまうのか。

それはおそらく、
自然のままでいさせようとしない
人間のエゴがあるからなのだと思うのです。

きっと人間のエゴが
自然の形を歪めた時に
業が深くなるのでしょう。
もちろん、ここでいう業というのは
罰としての業というより、
本来あったはずの不均衡を
矯正する力を発動するもの、
としての業と言った方が
ニュアンスが近いかもしれません。

そのようなごく人間的な
狭義の傍観というのではなく、
もっとも大局的な視点から見た傍観というのは、
究極的な「ありのまま」でもあるのだろうと思えます。
なぜならそこには、
自分の自由と他者の自由が共存しているから。
そしておそらく、それがもっとも
自然の均衡に適っているのではないか。

前述の通り、
作品の中の火の鳥は
自分を傍観者であると言いながらも、
人間の前に現れて
その生き血を飲むと永遠の命を手にできるらしい、
そう言って介入してきます。

これは単に、そう展開しないと
物語が進まないというだけのことではない気もします。
いわば、永遠の命を得るという
自然の摂理にとっての歪みによって、
「現実の日常ではない物語」が
展開されていくことを考えれば、
傍観者と言いつつ人間に介入してくる
火の鳥自身がが非現実的、いや
非自然的な物語を生んでいる、
いわば不均衡なワイルドカードとも言えるのだと思うのです。

フィクションであるがゆえに
火の鳥は人間に介入してくるし、
そこに不自然な展開が生じてくるのでしょう。

もちろん、現実には火の鳥など存在しません。
ゆえに不老不死などありえないわけです。

けれど、人間の科学や医療が発達し、
不老長寿を実現しようとする時代となったらどうでしょう。
人類がまさに火の鳥の生き血を飲もうとする、
そのような時代になったらどうでしょう。

その時、おそらく最も摂理に適った選択というのは、
火の鳥の生き血を前にしても、
あるいは火の鳥に生き血を飲んでもいいと勧められても、
傍観者でいられることなのではないかと思うのです。

人の業さえも咎めない。

なぜなら、
傍観こそが最もニュートラルであり、
自然なバランスあるのだから。

あらゆる生命は、
自然の摂理という最も大きな天秤の上で
自分の居場所にいることで、
安全に存在できるのでしょう。

自分の居るべきテリトリーを
越境したところで、
バランスは傾くだけだと思うのです。

この天秤のバランスを保てないうちは、
人がいくら不老不死を手に入れようと、
あるいは宇宙に旅立つ時代になろうと、
いつまでたっても愚かなままなのでしょう。

そういう人類の行為に対しても
常に傍観の視点を持つことは
人を超えた次元で
最も真理に近いのかもしれません。