悪人じゃないし、まあいいやと言える世界

日本では戦後より、
悪を悪と断じることのできず
「誰かそれを断じてくれる人」という
見えざる存在に
それを丸投げしてきたようの思えます。

それはおそらく、
軍国主義時代とその敗戦の経験から
来るものだろうと思いますが、
これは日本人の悪癖であるように思えます。

巨悪に対しては
口をつぐむ割に、
身近な小さな悪や失敗には
実に不寛容なのが日本人、
いや日本人に限らず
人間というものは、
往々にしてそういうものなのかもしれません。

誰もが巨悪に対して何も言おうとしないから
それはどんどん育つし、
集団社会の中の不寛容さに
人はどんどん萎縮していくから、
悪というものは
平然とのさばっていくものなのでしょう。

この世界では結局、
『悪の方が力が強い』のです。

なぜか?

往々にして人というものは、
自分より力の大きな悪に対しては抗えないのに、
自分より弱い身に起こる悪に対しては、
より力を持つものと同様の振る舞いをしてしまうから。

それが人の精神構造の悪癖でもあるし、
人の生きる世界はその原理に則って生きています。
法はそれを否定しますが、
人の元来持つそうした粗野な精神性にとって
その法は単なる隠れ蓑になっているようにも思えます。

人が及び知るところの
法や徳の範疇などは
所詮、「力こそが正義」という
論理から脱却できていないのです。
そして脱却しないまま
社会が構築されて、
その「力」の部分に諸悪は溜まるのでしょう。

これが人の世界なのかもしれません。

誰の心にも必ず悪の部分は存在します。
けれど、その心の闇を持っているだけでは
悪人とは決して言えません。

人の善悪というものは、
そのどちらを選んで実践するかによって
決まるものだと思うのです。

善性を実践する人は善人。
悪性を実践する人が悪人。
また、何も実践しないことが
善性になることも
悪性になることもある。

ゆえに本来は、
「力こそ正義」という構造の中にあって、
悪に力を与えない方法というものも
あるのだと思ういます。

極論ですが、
赦してしまえば悪は存在しえません。
とはいえ、
実体を持つほどに大きくなった明白な悪まで
赦すことは無理でしょう。

つまり、
明らかな悪人は人情として
流石に許せないし、
人はそういうあからさまな悪に対して
直接断じることを避けがちです。

けれど、避けるから
悪は育つのだとも言えると思います。

悪人の存在は、いつも
自分の中にあるのだから、
悪人を自分の中で育てないことは
できるのだろうと思えます。

赦すこととは
大罪を赦してこそ徳である、
という質のものではなく、
あらかじめ赦すことで
罪や悪に育てないという選択もあると思うのです。

「悪人じゃないから、まあいいか」と。

それでも正さなければならない
不正に対しては
断固として正そうとすべきでしょう。

しかしその
「悪人じゃないから」という
価値基準を洗練させていったその先には、
必ずしも「力だけが正義ではない」という
価値構造を持つ社会が形成されていくようにも思えるのです。

その社会はおそらく、
悪の育ちにくい社会でしょう。