知ってるか?人生にUNDOはないんだぜ

知ってるか?
人生って、「UNDO」とか「再起動」とか
無いんだぜ。
しかも最近ではまるで閻魔帳のように
自分の言動がデジタルツールに
何一つ見逃されることなく記録されてるんだ。

何年か前にも似たようなことを
記事に書いたんですけど、
人間、パソコンとインターネットが普及してから
生き方が雑になったように感じるのです。
つまるところ、
自分のした行いを
「UNDO」や「リセット」する習慣が
あまりに『当たり前になり過ぎた』ために
そういう癖がついてしまっている、という事。

当然ながら、やり直しが効くのは
スマホやパソコン、ゲーム機だけだ。

今でこそ、
やり直しの効く社会をとか
弱者にもチャンスをとか
一応言われてはいるけれど、
こんなものは理想への目標値であり
ただのレトリックに過ぎないのです。
はっきり言えば、絵に描いた餅。
ただの幻想。
人類というものは
想像以上に保守的で閉鎖的だぞ。

少なくとも日本では
ドロップアウトしたらそこまで。
這い上がるチャンスは
宝くじを当てるくらいの確率でしか
巡ってはこないのです。

そう「UNDO」は認められない。
誰が悪いわけでもない。
元々、そういうものなのだから。

でも考えてみて欲しい。

そもそも人の一生なんてものは、
自分の思い出しくもない過ちや、
無知で愚かであったが故の恥ずべき行為、
時には罪でさえ一つ二つは背負って、
その重みに顔を歪めながら、耐え忍びながら
生きていくものなんじゃないのか?

僕だって絶対人には言えない
『闇』はたくさん抱えているし、
その闇に、いっそこのまま
くたばってしまった方が
全て楽になれるんじゃないかと考えることなんて、
本当にしょっちゅう。
でも、なんとかえっちらおっちら
身も心も満身創痍で存在している。

一方で、何の過ちも経験せず
ありがたいことに特に壁にもつきあたらず
楽に生きているやつだって
実際のところ、やっぱりいるにはいる。
こいつらは果たして運が良いのだろうか。
どうも、そうとも言えない気もする。

僕が考えるに、こういう人というのは
一にそれこそ悟りを開いたような
人生に対して相当に出来た達人か、
もう一つに生きることについて
何の感受性ももたないただのバカ。
ただ、この両者というのは
どちらかと言えば稀な人たちで、
実際、おそらく一番多いのではないかと思えるのが
熱量のない生き方をしている人。

なるほど、熱量のない生き方というなら、
人の言うことはよく聞き、
波風も立てず、どこにもぶつからず、
結果、摩擦も起こすこともないとは思う。
美徳でさえあると人は言うし、
そういう人生を「幸福」と呼ぶ人もいる。
そういう生き方を是として好む人もいる。

けれど、そういう人生で
いったい何が見られるのだろうとも思うのです。
いや、もしかすると
そういうものは
見る必要のない人たちなのかもしれない。

と言うか、
こういう考えというのは、
僕のような肩で風を切って生きてきた人生のツケを
人生の後半生で払わされている人間の
最後にしがみついている
アイデンティティから漏れる
負け惜しみなのだろうと考えられることも
理解はできる。

でも、だ。
それでもだ。

人は熱を持って生きる時
良くも悪くも自分を生きているし、
その熱が周りにまで伝播することもあるでしょう。
その反面、熱が下がれば
その熱のあった時代の行為に
吐き気を催すことだってあるし、
周りに伝わってしまった
自分の熱の意味がまるで
自身の原罪のように感じてしまうことだってある。

人は「熱を持った存在」である限り
あちこちが痛くて、
何をするにもままならなくなってしまうことさえある。
じゃあどうする?
人生に「UNDO」のショートカットはないぜ。
まして、再起動をかけたり
シャットダウンできると思うなよ。
一生、自分の愚かさや過ちを
生きながらに背負い続けろ。

痛いだろ。重いだろ。
それが人生の味だ。
お前が生きた人生の味だ。

人は突き詰めれば結局のところ、
生きてその人生の味を知るためにしか
存在していないことを思い知れ。
やり直しは不要。
自分の生きた人生の味を存分に喰らうのが
お前がそこにいる理由だ。
間違ってもリセットしようと思うな。
お前の味が台無しになる。
やがてはその反吐が出るような味さえ
甘美に感じられるよう今後の人生の味付けをしていけ。
それが熱を持って生きることの
代償とも言えるし、務めとも言える。

そして、
同時にそれは償いにもなると信じなくては。

そしていつだって、
そういう生き方を嗤ったり、
なじったりする奴らというのは、
熱のない人間たちであることも
ついでに知っておけ。
けれど、冷めた奴らを
責め立てることはしてはいけない。
人はそういう冷めた奴らとの関係の中で
適温を知ることができるし、
相容れない奴らがいる事によって
その己の熱を上手く使って
『丁寧に生きる事』が学べるのだから。

そして、ここが最も重要なのかもしれない。
『人は自ら過つ事によって
本当の許しの意味や寛容を実践できる人たりえる』

何を持って丁寧な生き方なのかは
お前の人生の中で、お前の生き方から
その答えを出せ。
これは人から教わるようなものじゃない。

とまあ、
雑に生きてるから
『UNDO」や「リセット」が欲しくなるんですよね。
けれど、
丁寧に生きていたら、
一瞬はそういうものが欲しくなるにしろ
案外、無しでもやっていけるものだったりするのです。
そして、そこにこそ
贖罪や復活のヒントが
埋もれていたりするのかもしれないのです。

だからとにかく、
自分の人生、大切に生きろ。
残さず死ぬるまで喰らいきれ。