富の功罪

D.A
人にとって
本当の意味での
「富」とは何なのでしょうか。
「富」とは物質的なものの
充実度を表す指標ではありますが、
ここで勘違いしがちなのが、
「富」とは金銭的なものの
潤沢さであるとという間違いです。
金銭的に潤沢である、
それすなわち
物質的な事象を自由に手に入れられる
事であり、
金銭的な潤沢さは
そこにさほど意味をなさないものなのです。
つまり「富」とは
金銭的な潤沢さを意味するものではなく、
自身の行動の範囲、範疇の
広さ、豊富さ事を
指し示すものであって、
別にそれは金銭的な潤沢さに
置き換わっていなくても
充分に成立する概念なのです。
人の行動には
次のような段階があります。
まずはじめに動機。
何かを為したいという欲求です。
そして次に手段。
それを為すためにすべき事柄の事です。
そして最後に結果。
それをとある手段をもって行使した際に
得られる結果。
そしてまたそれは
果たして自身にとって
充分満足の得られる事象を体験出来たか。
この一つ目の段階から
三つ目の段階までを経て、
何かを得たり、
それが叶わなかったり、
そのサイクルを繰り返します。
ここで思い返して欲しいのです。
これらの人の欲求の行動に際して
果たして必ずしも
金銭的なものが必要になってくるとは
限らないという事。
むしろ金銭的なものを
間に挟み込む事によって
自体は複雑化し、
時にはそこに人の情念が混じり合い、
苦痛を味わうはめになる可能性もあるのです。
物質的ものを起因とする苦痛は
自分自身を低いものであると
錯覚させる事がままあります。
しかし、
自らの設定した目的に
金銭的、あるいは物質的な手段を
経なくとも目的に辿り着ける事、
いや、
手段とは決して物質的な行使だけでは
叶わない事もあるし、
叶う事もあると言う
柔軟な定義付けを
あらかじめ自身の心に刻んでおけば、
目的を叶える際に
その手段の可能性のバリエーションを
すり減らす事も無いのです。
結局のところ、
目的の行使に際して
物質的な行為とは
決して金銭的なものである必要は
無いのです。