幸福論

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XIX. The Sun・・・
幸福であるという事・・・。
それはきっと、
裏を返せば一切の不安から解き放たれ、
その状態を
絶対的な信頼のもとに肯定している状態・・・。
そういえるのかもしれません。
では、
人は何をもって
不安を感じるのでしょうか?
その不安の正体の多くは多分、
「喪失」の恐怖に根ざしたものである、
そうは言えないでしょうか。
17世紀、フランスの文学者、
ラ・ロシュフコーはこう言っています。

『この世で最も幸福な人は、
わずかなもので満足する人である。
そういう意味では、
偉い人や野心家などは最も惨めな人々である。
彼らを満足させるには、
実に限りない財宝の山がなくてはならないのだから。』
そう。
世間的に偉い立場の人や、
そういう立場を目指す者たちは、
物質的な富や、
世俗的な肩書きを求め、
常にそれらを求めるが故に
その反面、
それらを失う恐怖をも
持ち合わせているものです。
世間的に見て偉い立場の人たちや、
多くの富を得て、
一見すると世の成功者と称される
彼らには、
常に「喪失」の不安がつきまといます。
また目先を変えて、
別に成功者でなくとも、
例えば
自らの命を「喪失する」という事だって
多くの人にとって
常に不安の種に
なっているのではないでしょうか。
それ故に、
幸福な人であるという事は
ラ・ロシュフコーの指摘するように、
わずかな事や、些細な事でも
満足し、肯定できる人たちの事、
と言えるわけです。
なぜなら、
多くのものを望まない人は、
その「喪失」に対する不安もまた
多くを抱く事がないからです。
ほんの些細な事でも満たされていると
感じる事が出来るのですから、
それ以上に欲深くなる事は無いのです。
人というのは、
欲すれば、求めたくなる。
求めようとすれば、
渇望を経験する。
なんとかそれを得たところで、
今度はそれを
いかに手元に置いておく事が出来るか、
そのことに
心を煩わせるものです。
結局のところ、
「喪失」の不安から逃れる為には、
何事も手放すより他は無いのです。
全てを手放し、
精神的にも世俗的にも、
時には物質的にも
身軽になれた時、
人はその「喪失の不安」から解放されます。
その「喪失の不安」から解放された状態、
つまり
精神的にも世俗的にも、
時には物質的なものからも
解き放たれ
必要としなくなった時、
その時こそ
真の幸福を得られるのではないでしょうか。
それはつまるところ、
真の幸福を知る人たちとは、
富や肩書きなどは不要なものであり、
ただ、
「今この瞬間に真の自分で在る」
その事だけをもって
絶対的に自身を肯定できる
状態にある人たち、
という事を意味します。
もともと
何も必要としないのであるから、
「喪失」への恐怖も感じないわけです。
それどころかむしろ、
自らのものを
分け与えようとする精神さえ
持ち合わせているかもしれません。
結論を言ってしまえば、
人は何かを欲する限り、
常に「喪失」の不安がついてまわります。
しかし、
何も欲さなければ
そもそも「喪失」への不安とは
無縁なわけです。
それ故に
最も幸福であるという事は、

『何も必要とせず、
ただその状態を絶対的に信頼し、
肯定している状態である』
そう言えるのではないでしょうか。
ただ、その事に気付くまでの道のりは
大抵の場合、茨の道となることでしょう。
鬱蒼と生い茂る
茨の門をくぐっていった
その奥にこそ、
真の幸福があったのだと思い知る、
いや気付く・・・。
幸せというものは
そういうものなのではなかと
思えるのです。