僕のうたのイデア

僕が本格的に心を病んで
1年が経ちました。
おかげさまで、
皆様の優しい励ましもあって、
なんとか今でも生きながらえ、
こうしてブログを書かせてもらっています。
この春先頃から、
歌詞を充てる事も含めて
曲を作って
お世話をするという作業も、
心を病む前と
そんなに変わらないくらいまで
こなせようになってきました。
歌を創るという行為そのものは
変わらないのですが、
僕の創る曲と歌詞、
そのどちらもが
心を病む前と
変わってしまったような気がするのです。
心を病む前、
つまり「ララ・ルミナス」だった頃は
「聴いてくれる人の心に光を」
それを自分で意識して、能動的に
曲の世話をさせてもらっていました。
しかし今になって、
心を病んで以降に創ったものは
どれも
その歌の根底に、
至ってシンプルな
『生きる事を受け入れる』
という『理念』が芽吹いている事に
気付いたのです。
ただただ『生きる事』への
『感謝』の気持ちを捧げる為に
歌を創っている自分を見つけたのです。
そしてそれは、
ララ・ルミナスだった頃の理念、
「聴いてくれる人の心に光を」
このテーマが自分の中で
フィットしなくなった事を
意味するものでした。
僕がララ・ルミナスの頃というのは
お世話をさせて頂いた
歌たちを利用して、
「光」というものを
聴いて頂ける人様に
「押し付けていた」のではないか、
そう思えてきたのです。
「光」は
誰かが、ましてや僕が
与えるものではなくて
人それぞれが、
自分の力で
自分の中に見つけていくものであり、
わざわざ、僕がおせっかいに
「僕の光」というものを
人様にお仕着せする
ものではないのではないか、
そう考えるようになったのです。
人が10人いれば、10通りの
光の輝きがあります。
それなのに、
「僕の光」で人様の光を
染めてしまおうとすることは、
自分のエゴのであり、
非常にドグマティック(独善的)な
考えのような気がしてきたのです。
無責任に聞こえるかもしれませんが、
自らを癒し、救ってくれる光は
自分自身で見つけなくてはならないのです。
なぜなら、
それは自分自身の中にしかないのだから。
ただ、僕、鮎沢という男は
『生きる事』への感謝の気持ちを
歌にする、というところに
「自分の光」を見いだした、
その事だけ知って頂ければ
それでいいのです。
話が長くなってしまいましたが、
要するに、
僕が僕であるように、
あなたはあなたでしかないのです。
あなたの光は、
僕や、また別の人の光を見たところで
ヒントになる事はあっても、
そこには答えは見つからないはずです。
あなたの光は、
あなたの中にのみに存在するのですから。
僕は僕で、
ただただ
自分の光でありたい。
だから唄う・・・。
あなたはあなたで、
ただただ
あなたの光であって欲しいのです。
そう考えるようになって、
僕の創作に関する観念が
変わったように思えるのです。
ただシンプルに、
『生きる事』への感謝を
歌にするのみ、と。
ただシンプルに、
『生きるから』唄うのみ、と。
極論を言ってしまえば、
聴いてくれる人が
居てくれようが、居なかろうが、
それはさして重要ではなくなったのです。
重要なのは
僕がどれだけ
自分の光に対して真摯に
唄う事が出来るか、
そのうえで聴いてくれる人が居れば
なお良し、
そう考えるようになったのです。
心身ともに病んだ身で
僕が追い求める
人にも自分にも優しい「純粋な歌」を
追求していったら、
僕の場合それが
『生かされている事への感謝の歌であれ』
という『理念』へと
行き着いた、
ただ単に
それだけの事なのです。
それ故に、
僕がお世話をさせて頂いた「歌」は
人から見て
必要以上におせっかいであっては
ならないのです。
なぜなら
「光」は授けられたり、
見つけてもらったり
するものではないからです。
自分自身が気付くものだからです。
「聴いてくれる人の心に光を」
そのコンセプトでは
真の意味で誰も、
それどころか自分さえも
救えないのではないか?
そう思えてきたのです。
自分自身が
「これが自分の光です」
そう気付き、自信を持って言える
その瞬間、その場所にこそ
もっとも輝いている
自分の「光」になれるのだと思うのです。
僕は生かされているから唄う。
生きる事とは「輝き」なのだと
唄っている僕こそ、
その瞬間に輝き、
そして生きる僕なのだと、
心の病気を通して、
僕はその事を悟るに至りました。
あなたは、何によって
「生かされて」いますか?
何があなたを「生かせて」いますか?