刹那の極限へ

例えば、
「今さえ良ければそれでいい」的な
刹那的な生き方というものは、
往往にして、
特に長く生きてきた人の説教のように
たしなめられたりすることだったり済ます。

後先のことを考えて
計画的に生きないといけない、と。

今の幸福と、先に訪れるそれの
バランスを考えるに、
こういう話は
アリとキリギリスの寓話に
なぞらえることのできる問題で、
それに関して、改めて論ずることは
割愛させていただきますが、
僕が思うに、
この論点において
多くの人が考え落ちしたままに
人生の正解者は
アリなのかキリギリスなのかと
考えているように思えます。

まず、
幸福と快楽は等価であるかという点を
哲学されなければならないし、
そもそも未来に起こる出来事など
人の浅知恵で予測したところで、
あまりに不確定要素が多すぎるのです。

望む結果を得るために、
果たして本当に正しい行為だけを
人は積み重ねていけるのかという
疑問もあるでしょう。

人は、人生を評価する無数の軸のあちこちに
無造作に糸を絡みつけて、
その複雑な絡みつきになすすべもなく
妥協のうちにそれを放置する存在なのです。

そうした中で確かであると言い切れるもの、
あるいは「確かであると認識する自分」
というものは、
今ここに存在する自分以外にありえません。

明日も明後日も、1週間後も、
1年後も、10年後も、
その実像を認識できるのは、
明日も明後日も、1週間後も、
1年後も、10年後も、
「今」でしかないし、
そうであるのなら、
明日も明後日も、1週間後も、
1年後も、10年後も、
それどころか、どれほど久遠の未来であっても
悠久の過去であっても、
それが「想念される限り今」なのです。

そう考えれば、
冒頭のアリとキリギリスの問題に関しても、
それは「観念」の差異というより
「結果」の差異があるだけなのでしょう。

刹那的に生きようが、
長期的な視野を持って計画的に生きようが、
それはさして問題ではないのです。
アリにはアリの結果があって、
キリギリスにはキリギリスの結果があっただけに過ぎず、
その結果という視座からは
アリやキリギリスの生まれてから死ぬまでの顛末は
永遠、つまり『永遠に連なるこの瞬間』に
想念され続けるものなのでしょう。

そして、
永遠とは人の意識で想起されうる、
時間の全体のことを指し、
究極の『一瞬』でもあるのです。
言い換えるなら、
以前においても、以後においても、
それが過去や未来ものである以上、
それらの
「幸福」も「快楽」も、
『一瞬から想起されたもの』であり、
想念されたものは、それ即ち結果なのです。

故に、
一瞬から生まれ出たものは、
永遠に一瞬にあり続けるのだから
「後先」を考えて生きる必要はないのだけれど、
「永遠」を考えて生きる必要はあるのだと思います。

「永遠」という地平が見えてくるまで
刹那的に生きるのなら、
おそらく人はもっと
賢く、また自由になれるはずです。