今日というお日柄的に
ちょうどいいお話をしてみたいと思います。

まあ、以前も触れたことがある話でもあるのですが、
自分を中心とする、
自分の認識の及ぶ世界のどこか、
それは外側なのか、内側なのかは
定かではありませんが、
とにかく、
「自分が認識しうる世界のどこか」に必ず、
自分と対となるジェンダーを持つ人は
存在するのだろうと思えます。

そもそも、生物学上の
雄雌というものはあくまで、
物理的、機能的な特質であって、
「本質的に、個体を識別するものではない」
のではないかと思うのです。

この世に生きとし生けるものの
すべからくは本質的に
『種の雄雌の総和』であるのではないかと。

故に、
この世界のどこかに、
必ず運命の赤い糸で結ばれた誰かが
存在する、そう言うこともできるのですが、
ここはあえて、
ロマンティックな夢想としてぼかすことなく、
それは一体誰なのかというところへ
踏み込んでみれば、
その探す相手というのは結局、
まず自分の中に存在しているということを
知る必要があるのかもしれません。
逆に言えば、
そこを完全に知っているのなら
おそらく、現実にそういう人と出会った時、
必ずその人だと分かるのでしょう。
そして、そういう人に本当に
現実に出会うことができるのは、
いかに奇跡的なことであるのかということも。

人というものは、
自分が思っている以上に
自分のことを知らないものですし、
あるいは、本当はそうではなくても
自分ではこうだと思い込んでいる事柄も
多々あるものです。

それらというのは
「本当の自分」とは
背反、あるいは矛盾する物事のことで、
多くの他人と社会的な生活をする上で
身につけていった
「後天的な自分」のことです。

この「後天的な自分」というものは本来、
解体していって、
最後に見出されるはずの
「先天的な自分」を知り始めると、
そうしたロマンティックな言葉でいうところの
「赤い糸で結ばれた人」の影が見えてくるのかもしれません。

そして、現実的な理屈で言うのなら、
自分の内奥に眠る
「先天的な自分」が
本当に求める相手像というものがあって、
『その相手像と100%違わない人が
必ずこの世界に存在するのだということ』
けれど、この世界はあまりに広く
そしてそこに住む人たちも膨大であるが故に、
そのような人と出会う確率は
天文学的な確率で低いのだということ。

だから人というのは
「後天的な自分」の条件に適う相手に
妥協点を見出して結ばれ、
ともすればその生涯の中で死を待たずに離れ、
そうしたことの繰り返しを続けて
見出してゆくのは
「理想の相手」というより、
「理想たり得る真実の自分」
なのでしょう。

自分の中の曇りが
一切なくなってようやく対峙できる、
自分の鏡像というのが、
一番最後に結ばれるべき人なのだと思うのです。

いや、結ばれるべきというより、
もともと本来、結ばれている人なのでしょう。
前述のように、雌雄というのは
性質や機能に過ぎず、
その本質は「一体のもの」であるのだから。 

そのような人とは
一体どのような人なのか、
それを知るには
自分自身が可能な限り
明瞭でなくてはならないのだと思います。

故におそらく、恋というものは
本質的には
鏡のようなものであるように思うのです。