謙虚さは素直さ

先日の、
人は反省しながら生きた方がいい、
という記事についての補足としてのお話です。

先日の記事では、
人は毎日でも反省、
つまり、自分の行動や思いについて
省みる必要がある、と
偉そうに言ったものの、
正直な話、
ならば自分はそれを実践できているか、
と言えば、全くできていません。
当たり前ですが・・・。

人は日々、生きて生活をしていれば、
大きなことから、
ごく取るに足らない些細なことまで、
様々な事柄を「知って」いくものです。

何かひとつ、ものを知るということは、
得てして、またひとつ
自分の中に「慢心」を育てたことでもあると
言っても過言ではないでしょう。
これはある意味、
人としては自然な振る舞いであるように思います。

僕自身であってもそれは同じで、
例えば、本を読んだりして
知識を身につけたりだとか、
あるいはふと、
人の生き方の何たるやについて
一瞬なりに悟ったような気になった時、
そこには間違いなく、
「驕った自分」が存在しています。

そして、別の何かの時に
何かしらの壁に突き当たって、
そこで、いかに自分が
取るに足らない自分であったかを思い知り、
そして同時に、それまでの自分の慢心を
恥じるのです。

そして、壁を乗り越えた充足は、
新たな「解体されるべき慢心」となっていくのです。

僕に限らず、
人というのは
反省しない限り
それこそ天井に頭をぶつけるまで
驕り続けるものだと思うのです。

人生というのは、
おそらく、こういうことの繰り返しなのだろうと思えます。

いわば、これは
心の代謝なのです。

よほど、何かに傷ついて
極度の自己嫌悪にでも陥っていない限り、
毎日、日がな、自分について
反省しきりということはないでしょう。

何故なら、そもそも、
「慢心につながりかねないところの」
自信や勇気がなければ、
根本的に行動力など生まれないし、
自らの反省を活かし、実践する機会を
得ることはないであろうから。

故に、
奢って進んでもいいのではないかと思ったりもします。
それが人生を突き動かす
原動力になり得るのだから。

最終的に、
理に適わないことは、
必ずいつか、どこかで、
その過ちが露呈する時がきます。

そして失敗し、
あるいは過ちに気付いた時、
その時にこそ素直にそれを受け入れ反省し、
間違いを正す素直さが問われるのだと思うのです。

「自分はそういう慢心はしない」
そう、言い切ることのできる人ほど、
「自分は慢心しないという驕り」を
心に内在させていることに気づいていないのでしょう。

そう考えると、
「謙虚さ」というものは
「素直さ」に先立つものであるのかもしれません。
「素直さ」によってたたない「謙虚さ」もまた、
向かう方向こそ違えど、
「謙虚さこそが絶対である」という
「信条の驕り」が有るのだと思うのです。