私は痛い人である

人は誰しも、
自分自身の経験の中に
「痛い何か」を持っているものです。

それは過去の自分の振る舞いであったのかもしれないし、
もしかすると、
現在進行形の自分の人となりかもしれません。

誰しもが、そういうものを
うちに持っていて、
それについて、たいていの人が
話したがらないから、
自分以外にそうした「痛い何か」を
持っているかどうかということを
確かめようがないので、
ともすれば、
そういう「痛い何か」を隠し持つ自分というものは
もしかすると、本当に最低で
グロテスクなのではないかと、
不安になったりすることもあるでしょう。

人に知られたくないことについて
誰も言わないから、
自分から見える世界における
他の人というのは
実に公明正大で善良な人のように
思えたりもするのですが、
そのようなことは絶対にありえません。

自分について、
自分は非の打ち所がなく、
暴かれて、責め立てられたり
恥ずかしい思いをしたりするようなものを
一切、隠し持っていないと
言い切れる人などいないのです。

もし、心底そう言い切れる人がいるのなら、
その人は、
一切、自分を省みない人か、
自分を見ないようにしている人か、
あるいは本当の馬鹿なのでしょう。

誰もがそういう
「痛いと思う部分」を
認識して入るけれど、
その「痛い部分」というものも考えてみれば、
「自分が痛いと感じる部分」であって、
意外と他人にとってそれは
別に痛いものではないこともあるかもしれませんし、
逆に、自分にとってそれは
痛いと感じるものではなくても、
人からすれば「痛い振る舞い」であることだってあるのです。

そういう「痛い部分」というものは
自分自身が、それは悪癖や悪習であると
自省して、良くなるように
行いや考えを改めるのなら、
それはそれで人の成長という意味で
素晴らしく良いことだとは思います。

けれど、「痛かった過去」というものは
直しようがありません。
直しようがないし、
まして、過ちに気づいてそれを
改め、克服できた人であるのなら
余計にそれは「痛い過去」となり得るものでしょう。

そういうものはもう、
受け入れるしかないのです。
「痛いものを内包している自分」を
受け入れるしかないのです。
愛せない物事かもしれませんが、
愛せないままでは
もったいないこともであるような気がするのです。

愛せないままでいると、
今度はそれについて
他人にも強いるようになるから。

そもそも、
痛いかどうかという線引きは
本人の観念的な認識と
センスからくるもの以外の何物でもないのだから、
よほど人に迷惑をかけるような極端なものでない限り、
別に「痛いまま持っていてもいい」ものであり、
それを是とするか非とするかという問題は
それすなわち、
感性を持つ人同士の相性によるところなのでしょう。
合うか合わないか、それがあるだけであって、
「痛いそれ」もまた
あるがままの「それ」に過ぎないのです。

「それ」をひた隠しにするのも、
また、おおっぴらにしてしまうのも、
どちらを選んでも間違いはありません。

ただ間違っていけないのは、
隠して見えなくしている他人は
「それ」を隠しているだけで
一点の曇りもない聖人君子ではないのだ
ということ。

その「それ」を痛いものとして、
他人の中に見出し、
人の中のそれを矯正しようとすると
人は殺伐とし、優しくなれなくなるもの。
そして悪循環で
どんどん
人同士の仲が悪くなっていくのです。

この世界を生きている人は皆、
誰しもが己の中に
「過ち」を抱えているのです。
それらを抱えていない人がいるとすれば、
それは神様や仏様のような人であるだろうし、
そのような人であるのなら、
そもそももう、その人は人ではないのです。

そしてこの世界は
人が生きる世界なのです。