防音室の外側にはもう誰もいない

音楽に限った話ではないのでしょうが、
年老いてもなお、
自分の信じるもの(音楽)を
貫き通すということは
本当に難しいことだと思えます。

正直、僕が若い頃に想像していた以上に
難しいことでした。

老いてもなお、
自分の信念を曲げずに
叫び続けるということは、
誇張でも比喩でもなく、
本当に
虚構に向かって叫んでいるようなもので、
その叫び声は
木霊どころか、残響さえ残りません。

どれだけ叫んでも
その叫んだエネルギー全てが
虚空の中に吸い取られていくのです。

叫んだエネルギーだけではありません。
自分の全存在が
あたかも無いものであるかのように
どんどん、吸われていくのです。

僕が心底、悟ったのは
自分の信じることを
ひたすらに貫き続けるということは、
そうやって貫き続ける長さだけ
集団や社会、いや、世俗からも
孤立していくことでもあるのだということ。

大抵の人は、そうなることを恐れて
どこかで人生を妥協してでも
集団や世界との接点を失わないよう、
その中に収まっていようとします。
そして、
社会の中の一部として収まることと、
一人前になることが
等価のものであることと
「信じること」によって
自らのアイデンティティを保ち、
そして同時に
己を呪縛していくのでしょう。

呪縛されているうちは、
何でもかんでもを縛るから
いかにも手元にたくさんのものを
勝ち得たようにも思えるし、
実際に、そう思ったまま、そう疑わないまま
生涯を終える人の方が
はるかにたくさんいるでしょう。

そしてまた、この世界、この社会というものは
そういう人たちによって
成り立っている世界でもあるのですから。

かつては、そういう
『防音壁の外側の世界』にいた人たちも
やがて内側に帰って行き、
僕が変わらずいるこの場所にも
もう、ほとんど人がいない。
あの辺に一人、
あるいは向こうの方にも一人いるのだろうか、
本当にそのくらいに人がいなくなってしまった。

そこで僕は葛藤するのです。
自分のやっていることは
間違っているのではないのだろうかと。

僕には答えがわかりません。

ただ僕としては、
風通しの悪い防音壁の内側で
仲間内だけでしか共有できないような
ひそひそ話の仲間に入れてもらうつもりはないし、
僕もまた、そういう人たちに向けた
ひそひそ話をするつもりもありません。
というか、それ以前に
そもそも僕のような人間は、
彼らからすれば仲間ではないはずです。

そう、きっと、
壁があるから、自分のやっていることの
残響も聴きやすいのでしょう。

けれど、
「純粋に自分から発するもの」だけを
感じ取りたいのなら、
共鳴する壁の一切を取り払ってしまった方がいい。

自分が発するものは
何にも共鳴させることのない
「これ、そのもの」なのではないかと。

残響や余熱を帯びないから、
年老いてエネルギーがなくなってくると、
それを支え切ることが難しくなってくる、
というのが冒頭に書いたことの真意です。

影のない世界で
影を作らずに叫ぶ。

確かに、そこには
最も根源的とも言えるような
真実の姿があることは
間違い無いだろうなとは思えるのですが、
果たして、
それが本当に正しいことであるのかどうかは、
やはり、僕にはわからないのです。

そして、
これが今、
僕が音楽を通して
常に突き当たる疑問なのです。