Noでありながら、かつ根本はYesである世界

この僕のブログも、
今年の春には9年目に突入します。
このブログの前身となった
もうネットからは消えてしまっている
ブログ記事も入れれば、
かれこれ、ほぼ同じスタンスで
10年も記事を書いています。

まあ、それらを振り返るのは
10年経ってから改めてするとして、
僕の過去の記事というのは
病んでいた時期には
病んでいるなりに(笑)、
基本的には何かしらについて
批判するという姿勢を取り続けていた気がします。

ここにきてやはり、
およそ10年、
自分の考えを述べてきて
ただ頑なに排他的であり続けるだけでは、
自分の述べることについて
限界が見えてきたことを
1〜2年、認めざるを得ない自分がいるのです。

多くの記事の根底には
少なからず「No」という否定が
底流していたことは明らかだだと思っています。
しかし、
ただ単に「No」というだけでは、
たとえそれが
知的に弁証された基底からなる「No」であっても、
本当に、ただの「No」であって
何も生みはしない。
ただ壊すことのみであるのだな、
ということに、
僕も不惑の年代の半ばを過ぎて
ようやく分かってきたような気がします。

そうか、
これが「否定する」ということなのだと。

とはいえ、そういうものは
これはこれで
「ロックの真髄」であることは間違いないと思いますし、
僕の書く記事の軸というものは
ロックミュージシャンという立場であることは
忘れていません。
決して、評論家でもなければ、
文化人や知識人でもなく、
まして、勘違いされているかもしれませんが
教祖(笑)でもなんでもない。

僕は純粋に、ひとりの
絶望的に売れないロックミュージシャンとして、
自分が思うことには嘘をつかずに、
たとえそれが
他人からすれば変な目で見られるような内容であっても、
ためらうことなく、
自分の考えや思想について発し続けてきたのです。

そしてそういう自分に
相入れない物事について
「No」を突きつけることで、
時には「これが真実だと思える」
そういう物事を引き合いに出しながら
対象となるものについて
「No」と言ってきたのでしょう。

『何か問題ある?』
という感じで。

ところが、ここで模索は終わりかと思いきや、
どうやら、否定の先には
新しい別の示唆が見えてきたのです。

「No」であるものはあくまで「No」として、
それ自体を「Yes」とすることだって
できるのではないのだろうか、と。

そういう、拡張された視座でものを見るのなら、
否定すべきものは
否定すべきものとして
確かに存在はするものの、
それが存在すること自体、
自分がそれをそうと気付くずっと昔から、
おそらく、人類創世のレベルで本当に昔から
そして未来永劫に至るまで、
「否定すべきそれ」をあるがままに
認知するなら、
つまり物事の根本、本質は
いつだって永劫に
「肯定されるべきもの」、いや正確には、
肯定、或いは否定という二元性の概念の
さらに向こう側には
『ただ、それがあるだけ』だったのだと、
そう思えるようになってくるのです。

つまるところ、
自分が外的世界で見て、感じるものは、
いつでもどこでも、そしてなんでも、
「然り」つまり「Yes」
だったのです。

「No」とは
「Yes」の影に過ぎないのだということ。
そして「Yes」と言うのは誰なのか。

そこについて思い至った時、
自分の中で、
生きて体験する、あらゆるものについて
いちいち、カリカリするのがバカらしくなってきたのです。

もっとも、いつもそう言う心境で
いられるわけではないのですけど、
10年近くブログという形で
自分の思想や模索の痕跡を残して、
それを振り返るに、
昔は「それが当たり前だった視座」が
随分と下の方にあることに気づいたのです。

正直、僕からすれば
未だ多くの人は
古い視座の世界を生きているわけで、
それはそれで、
かつての自分も同じようなものだったのですが、
それが別に何一つ、悪いとか、低いとか、
そういうことではないものの、
自分自身も、
「よくもまあ、そんな狭苦しいところにいるな」と
思ったりするのです。

そういうことも含めて、
「もう、いいじゃん」と言えるのが
『Noでありながら、かつ根本はYesである』
という視座であり、
まあ、みんなそのうちいつかは気がついて
そこから出てくるわけで、
まだ出ようとしない人たちについて
いちいち目くじらをたてることなど
実に阿呆らしいことなのだと思えるのです。

9時発の電車に乗る人と
9時10分発の電車に乗る人との間に
或いは8時55分発のバスに乗る人の間に
優劣があるわけでもなく、
誰もが、その時間に出発する理由があるのだから。
早く着いて、1本早いバスに乗る人がいてもいいし、
遅刻して3本電車を乗り逃しても4本目の電車はまた来るし。
夜勤の人が朝一番で出勤する理由もなければ、
朝の明けやらぬうちに、登校して来るのにも
その人なりの理由や目的があるのでしょう。
自分の予定や都合に合わせた
ちょうど良い乗り物は、いつでも出ているのです。
徒歩や自転車でも良いのです。
なんなら、今日はどこにも行かなくても良いし、
どこかへ行く時には、必ずそこへ行くわけですし。

これが
『Noでありながら、かつ根本はYesである』世界。
不寛容で窮屈な世界の上側の出口から出ると見える景色。

僕自身、さすがにその
狭苦しいところに好き好んで戻る気はありませんが、
まだその引力の影響下にあって、
たまに落ちたりします。
それもそれで
『Noでありながら、かつ根本はYesである』
なのでしょう。