セイント・アンガー

人から湧き出すあらゆる感情というものは
「思いの方向や質」の違いがあるだけで、
たとえそれがネガティブな心象のそれであっても
それ自体には善悪はありません。

例えば「怒り」という感情は
「異質なものに対する拒絶反応」の
もっともダイナミックな質の感情であって、
これもまた、その善悪を評価するのは
人の持つ観念に他ありません。

人は生きていくうちに、
知らないうちに
「怒り」について「悪」という評価の
レッテルを貼り、
行動様式を制限していたりもします。

それはやはり、
経験則で「怒り」という感情を
露わにした結果、
良いことはなかったと学んだが故なのでしょうが、
そもそも、
「怒りという感情」の
ダイナミックなエネルギーに対して、
ほぼ、ほとんどの人が
『悪しき結果しか導き出せないほどに
人はあまりに愚かである』
と言えるのでしょう。

「怒り」は
悪しきものを駆逐して
良きものを招き入れる「場所」を作るというのが、
本来の性質なのだと思うのです。

古来より、人の歴史において
新しい良いものに置き換わる転換点があって、
留まり続ける悪しき古きものを破壊する
「怒り」は革命や運動となって
時代を動かす力にもなりました。

本当の「悪」は
「怒りは悪」という観念そのものなのだと思えます。
悪しきことは全て、怒りの結果であると
うそぶく「常識」という皮を被った「悪」です。

本当に怒るべきなのは、
こうやって人間らしいエネルギーを
低いところへ落としていく「悪」なのです。

この怒りは「悪」ではあリません。
眠った魂を解放するための怒りです。

整い、管理され、
予想できること以外には何も起こらない、
そんな世界に対しては、
怒りを露わに、争う必要があるように思うのです。

なぜなら、
「怒り」という感情は
「存在」と「無存在」を分ける
「不変なる絶対」の実存に関わる部分であるために、
それが脅かされる「怖れ」への防御として
発現するものであり、
人の精神のもっとも根底に
普遍的に内在されている「摂理」の一部なのであるから。

人は物思い続ける限り
物思わない世界に対しては
怒りを持って、はねつけ、退けるべきなのでしょう。

それが
『存在し続けること』の本質でもあるのだから。


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