全て機械に任せて「人」になる人、「ロボット」になる人

先週だったか、
国会の答弁を人工知能にやらせる実験
というのがあって、
これは如何なものかとお話をしたのですが、
このことについて
もう少し掘り下げて考えてみたいと思います。

この一連のお話に関する論旨としては、
『人間、考えることまで機械にやらせていいのか?』
という点にあるわけですが、
よくよく考えて見れば、
人工知能などなくとも
現代人はすでに
「考えることを機械に任せている」のです。
その最たる例が、
ネットで検索して知識を得るという行為であるわけです。

このあたりに関しても、さらに以前、
ネットで知識を簡単に得られるようになったら
勉強などする必要はないのではないかと
記事にしたことがあります。

ネットであるにしろ、
人工知能であるにしろ、
「知識を適宜、機械から仕入れてくる」のが
当たり前の世の中が来たとしたら
一体人はどうなるのでしょうか。
あくまで「架空の将来」のこととして。

そうなると、おそらく
人間は二種類に分化していくと考えられます。

一方は、
一切、考えることなく、
付和雷同で、自分の意思は希薄で、
もしくは集団としての統制を重んじ、
人の指図なしでは
生きることのできないタイプの人たち。

もう一方は、
外部にある客観的な知識や事象は
あくまで自分の外部のもので、
『自ら欲するところの自分の所在』の
在り場を探し始め、内向していくタイプの人たちです。

良かれ悪かれ、
この二者は悠久の時の流れの下では
「別の種」になっていくでしょう。

別に閻魔大王の裁きや、
最後の審判が下されるというわけではなく、
次第に互いに縁遠くなっていくように
道を分かつようになるはずです。

そしておそらく、
この世界に残るのは前者の方だと思います。

元々が前者のタイプの人間に
都合のいいように作られた社会ですから、
後者のタイプの人間は
適応できずに、そのうち淘汰されてしまうでしょう。

けれど、この場合の淘汰とは
前者から見れば、駆逐されたかのように見えますが、
そうではなく、
後者のタイプの人間は
前者のタイプの生きる世界とは
「別の層」で間違いなく存在しているように思えます。

地を這う人と
空を飛ぶ人との分離はすでに始まっている気がします。

ただ、ここで勘違いをしてはなりません。

地を這う人と、空を飛ぶ人との両者に、
善悪の区別はありません。
というか、ここに区別を持ち込む価値観は
どちらかというと、
地を這う人の世界観なのでしょう。
それが悪いというわけでもないのです。

結局、何が違うかといえば、
機械に判断を委ねてしまうか、
常に内なる自分の声を聞くことができるか、
という差なのです。

今はまだ個々人によって
両極たる両者は
己の内的世界において混濁していますが、
テクノロジーが進歩することによって、
またそのテクノロジーが進化していくほどに、
ロボットのようになっていく人と、
人の本質を堅持していく人との間の溝は
どんどん広がっていくのだと思うのです。


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