肯定の力

「全てを肯定している状態」とというものは
およそ人が一般的に、観念的に考える以上に
生きるうえで大切な状態であるように思えます。

どんなに否定的な状況にあったとしても、
一たび、それを心底肯定してしまうと
世界の見え方が一気に
より高い解像度を持って様変わりし、
あるいは、ひっくり返ってしまうだけの
力を秘めているのが
「肯定の力」なのです。

あるいは、この「肯定の力」というものは
「迷わない信念」と言い換えることができるかもしれません。

この力というものは、
一言で言い表すなら、
『それが、それで在り続ける力』
あるいは、さらに深い表現をするのなら
『今、この瞬間の「それ」が
次の瞬間の今へ、より良い「それ」となって
存在しようとする力学』
なのでしょう。

そういう力学の
認識しうる最もシンプルな顕れが
「肯定する力」なのだと思うのです。

そもそも、自然界に存在する
人間以外のあらゆるものたちは、
この力によって存在し得るのです。

人間以外の存在の心情は
もちろん察することはできないのですが、
それをもってしても、
人間ほどに
否定と肯定のジレンマの狭間を揺れる存在は
おそらくないのではないでしょうか。

もっと簡単に言うなら、
『人間ほどに迷う存在はない』
と言うこと。

人はそれについて、
「人の高度な知性の産物」と言うでしょう。

しかし、ここで熟考して欲しいのです。

迷い、恐れ、萎縮させる元凶が
知性であるのなら、
その「知性」とやらは
おそらく、自然の摂理には法ってはいないのではないか。
それどころか、時に知性は
摂理に逆行し、乱しもするというのに。
とすれば、
この「知性」が高度であることは
大自然、あるいは宇宙といった
極限までに大局的な視点を持ってすれば、
何も誇ることのできる要素であるとは
言い難いのではないか、と。

困難や不都合は「知性」によって
克服されるもの、というのは
ともすれば「人類のルール」となっています。

しかし上述のように、
「知性」そのものが
恐れや迷いを呼び起こす種になっていることから考えるに、
その困難や不都合といった「穴」を
応急処置的に埋めることくらいしかできないのが
「知性」の力の限界点なのかもしれません。

事実、この「知性」を拠り所にして
構築された現代の人間社会は
そのことを如実に証明しているような気がします。

「知性」より高みにあるものから
「知性」は補修されなければ
「知性」が抱える根本的な矛盾までは
解決できないのです。

知性より高みにある「概念」

こう聞いて、
何を想像するかは千差万別でしょうし、
おそらく、個人によって
全てが「正しい高みの世界」でもあるのだと思います。

しかし、どういう理解のステージにも
共通し、貫通する概念というものがあって、
これこそが
「肯定する力」なのだと思うのです。

「知性」だけが肯定するだけでは
力にはなりません。

最も上から、最も下までを
貫く「肯定」の力のことです。

そして、
人間以外の存在はすべからく
この「肯定の力」に法って
存在し、営んでいるのです。

生まれ来る物事も、
育っていく事柄も、
そして
老い衰え、やがて死して
朽ちて風化していくことさえも、
貫かれる「肯定の力」に沿って
永遠に営まれているものなのです。


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