戦争と平和

少し前(2016年夏現在)、
トルコでクーデターを起こそうとして
失敗したというニュースを聞きました。

理由は簡単に言うなら、
武力による破壊を伴った政変より
民主的な、血を流さない変革を
国民は求めたのだとか、
そのような感じだったと記憶しています。

このトルコの国民の選択は英断だったと思うし、
今でもなお
武力による統制が不可欠だという価値観が
蔓延した世界にあって、
画期的なことだったというか、
この選択に人間の精神の正しい
進歩の道を垣間見た気がしました。

多くの人、誰しもが
平和な世界を願います。
そして誰もが言います。
戦争のない世界を、と。
戦争の記憶も忘れ、ただ平和であればいい、と。

戦争というものの存在は
忘れてもいいものなのでしょうか。

僕は思います。
戦争というものがどういうものであるかと
知っていなければ、
真の平和はありえないのだと。

仮に、戦うことを忘れ
平和しか知らない人たちの世界になったとして、
彼らは「戦うべきか」と問われる状況になった時、
戦わない選択をできないのです。
なぜなら、戦いを知らないから。
真っ白な絹の上に一点の染みができれば
誰もがそれに気を取られてしまうように、
戦争を知らない人たちは
その一点の染みに心とらわれていくのです。

そう考えれば平和には二通りの考え方が
存在するとも言えます。

一つは、
全くの平安、安寧しかなく、
誰もそれ以外のものを知らない状態としての平和。

もう一つは
苦しみや憎しみ、破壊や殺戮というものを
知りつつも、それは間違っていると知ればこそ
あえて、そういう選択をしないことで
維持される平和。

喩えは乱暴ですが、
わかりやすく言うなら、
人を殴る行為を知らない拳では人は殴れません。
ゆえに人を殴る人は誰もいないでしょう。
けれど、その拳で人を痛めつけることもできるのだと
知りつつそうしない人の言うところの
人を殴る人など誰もいない世界とは
その様相は全く違うのだと思うのです。

前者は無知です。
けれど、後者は叡智です。
前者は欠落であり、抑圧です。
けれど、後者は統合と解放です。

さらに言えば、
前者は「赦す」という概念を知りえませんが、
後者は「赦す」ことで
戦わない世界が実現することを知っています。

戦争も同じなのではないでしょうか。

戦争という破壊と殺戮の無意味さを
知っているからこそ、
それをしない選択ができるということは
人類の英知の蓄積がなさしめる業だと思うのです。

もっとも、
今の時代を生きる人たちは
何よりも自分の内側に
消し去れぬ戦いを未だ抱え、
平和には程遠い内的世界を生きる人も多いです。

それゆえに今、人類が
「戦うことを忘れた平和」のみの世界を
生きるには程遠い世界を生きているうちは、
平安しか存在しないことの危うさを
危惧するまでもないのかもしれません。

その意味では人類の未来はまだ明るいのだとも
言えるのでしょう。

より平和な社会というものは、
戦いのない世界なのではなく、
平和と戦いのバランスを上手に保ち、
より建設的で成長のできる選択を
常に選ぶことのできる精神から
生まれるものだと思うからです。


コメントを残す