不寛容の足枷に沈む世界

都合のいい不寛容が
己の首を絞める。

最近は世の中が不寛容だとか、
監視社会だとか言われています。

確かに、
常に他人の非に目を光らせて、
何かあれば鬼の首を取ったかのように
クレームを言う人とかは
実際にいるようですし、
ネットで見かける誹謗中傷などは
その際たる例かもしれません。

ゆえに、過ちの許されない
不寛容な世の中だとか、
監視社会だとか、
そう言われるのでしょうが、
今の世の言う「不寛容」とは
決して悪や過ちを許さず
「正義を実践するため」の不寛容、
そしてそのための監視とは
違うように感じます。

そう、今この世に蔓延る不寛容には
正義は無い。

ただただ貶める理由をみつけて
うちのめす相手を探すだけの
監視社会だと感じます。

自身の振る舞いは
まるで無法のように寛容で、
他人の振る舞いには
まるで古代帝国の法のように冷酷。

似たような構図があります。

それは、小学校や中学校(あるいは高校生)の
いじめの構図です。

結局、社会全体が幼稚になり、
大人になっても
稚拙なメンタリティが昇華されないことによる
社会の歪みとも言えるのかもしれません。

こういう社会を生きる大人もかつては
いじめ社会で戦々恐々としていた子供だったのでしょう。
その時の恐怖がきっと
癒えぬインナーチャイルドとなって
未だ心に巣食っているのだと思うのです。

修羅のような世界を見てきた
大人になりきれない子供の心が、
大人で構成されているはずの社会の中で
実に子供じみた問題を引き起こし、
それを咎める人もまた
子供じみたやり方で断罪する。

荒んだ幼少の経験を手放さない限り、
大人になっても
子供と同じ過ちを犯すのです。

現状、このトラウマを解放できる人など
存在しないでしょう。
いや、そもそもトラウマなどというものは
自分から解き放っていかないと
癒えない質のものだったりします。

ゆえに誰も
幼少のトラウマを昇華できないまま大人になり、
幼少のトラウマを昇華できない社会を
形成していくのでしょう。

こうして世界には
悪いものだけが残る。固まる。

今、世の中が
足枷の重みに沈んでいくのが見えます。