いのちであることの定義

いのちとは何か?

生きるということ。

生きる自由を有していること。

存在している「そのもの」のこと。

生きるということは
自発する息吹であり、
その息吹に選別は必要なのか?

いのちは選べるものか?

選ぶことができるのなら、
誰が選ぶのか?

選ぶのも人か?

選ぶものと選ばれるものが
同じ「人」であるのなら、
その両者の差異の根拠はどこにあるのか?

歩くことができるなら人なのか?

歩けなくなっても
いのちは自発しているではないか?

いや、歩くどころか、
話せなくても、
いや、ただ眠っているだけでも
いのちは自発しているではないか。

呼吸をしていれば
いのちは自ずと自発するものだから。

機械によって呼吸が可能になっている人のいのちは
自発しているのか?
呼吸をしているのなら
あるいは自発しているのかもしれない。

機械の心臓によって自発しているいのちはどうなのだろう。
機械を止めたら
いのちも止まってしまう。

けれど止まらないうちは
いのちは自発を続けるものではないか。

呼吸をしていることが、
あるいは心臓が脈打っていることが
いのちの条件であるのなら、
脳の動かない人は自発していないのか。

脳は死んでも体は暖かいのに、
このいのちは自発しているのか?

脳が部分的に機能を失っていまっている、
そんないのちは自発しているのだろうか。

肺も心臓も動いていて、
意識もあるのなら、
たとえこの先、何十年も
病床の臥せっていたとしても、
その人のいのちは自発していると言えるのだろうか?

そんな人のいのちを
自発しているのか、いないのか、
その判断を出来る人というのは
どんな人なのだろう?

それができるのなら、
よほど、いのちについて知り尽くした人なのかもしれない。
けれど、そこまでの叡智を身につけた人間が
この世界にいるのだろうか?

そんな人は絶対にいない。

だとしたら誰しもが
いのちに欠陥を持っているということなのだろうか?

欠陥を抱えたまま
いのちは自発してはいけないのだろうか?

そもそも、どこからが欠陥で
どこまでが個性なのか?

その欠陥は果たして、本当に欠陥なのか?

自発しているじゃないか。

欠陥を抱えながらも自発することが
いのちの条件であるのなら、
歩いたり、食べたり、
たとえそれができなくても、
何かしらの補助があればそれが可能だとしたら、
補助なしにでもそれが出来る人と
同等の能力を有したいのちであるとは
言えないのだろうか?

近眼で遠くが見えない人と、
寝たきりで歩けない人の
存在の際はどこにあるのだろう?

寝たきりで歩くこともままならない人は、
人の手を借りなければ生きていけない?

人の手を借りなくてもすむことが
正常ないのちの条件であるのなら、
それは正常ないのちを有する人の論理なのではないか?

そもそも、今かけているその眼鏡だって
お店でお金を払って作ってもらったものだろうに。
人の手を借りたじゃないか。

人の手を借りることで
正常な、いのちから除外されるのであれば、
近眼もまた除外されるいのちだろうに。

そこまで言い始めたら
排除されるいのちは無数にあるではないか。

いのちは自発する息吹だから、
壊れた部品のように使い捨てにはできない。

なぜ捨てられないのか。

必要だから。

どれだけ欠落していても
そこにいのちが息吹いている限り、
何か理由があるのだから
それをたかが人間の浅知恵で
要不要は決めてはいけないのではないか?

人がそれを知りえない以上、
生きていていい
理由なんてないかもしれない。

ならば死んでもいい理由があるはずだ。

けれど、
死んでもいい理由を見つけることの
自由を有することは、
いのちの自発の顕れであって、
死を肯定すると「思う」その一点において
生きていてもいい理由の
説明がついてしまう。

いのちというものは、
いや、いのちだけに限ったことではないけれど、
存在というものは、
それを否定するほどに
それは生き生きと息吹いてくるもの。

死を望む人が
死を語るとき、
俄然、生き生きと話し始める、
それと同じだ。

なぜなら、
もの思うことそのものが
いのちの息吹の自発だから。

生きることや、
生きるものを否定するほどに、
それは生きてくる。

それまで不要だったいのちまでもが、
必要なものへと変わっていく。

必要のないと思えたことが、
必要なものだったことに気づくこと。
それは、いのちが新しい自由を獲得した証。
いのちが拡張した証。

いのちはそうやって拡張を続けていくもの。

それが生きるということ。

必要なものも、不要なものも、
いつもそこに「必要なもの」として
存在していること、
それらの中に誰もが、
あるいは自分でさえも存在しているということが
生きるということ。

それがいのちの自発。

欠落は取り除いても
欠落のまま。
埋めない限り、
穴は開いたまま。

今ここで、
心拍も血圧も下降していき、
やがて体温さえもなくなっていくであろう
この人は、
いのちの自発をやめたら
不要になってしまうのだろうか。

その時が来たら火葬場に持って行かれて
燃やされてしまうのだから、
必要のない人なのかもしれない。

なのになぜ、骨を拾う?
なのになぜ、墓を建ててまで
灰を残そうとする?

そこにまだ、いのちの息吹が
残っていると信じているから?

欠落は取り除いても
欠落のまま。
埋めない限り、
穴は開いたまま。

土に還った人は
いのちだったなのか?

いのちではなかったと
誰が言い切れるのだろう?

いのちだったと
誰も証明できないのに。

肉体を持っている人は
いのちなのか?

いのちだと誰が言い切れるのだろう?

いのちではない証を
誰も示すことなんてできないだろうに。

今、生きて存在する、
「これ」は一体、何か?

考えないと、
あっという間に引き返せないところへ
行ってしまうだろうけれど、
考えるのなら、
永遠に時間は与えられている、
それがいのち。