救いはどこから来るのか?

救いはどこから来るのか?

往々にして何かしらの苦悩を抱えた時、
そこにたまたま運良く救ってくれる人が
現れもすれば、
一時的に目先の障壁となるものから
回避できることはあるでしょうが、
だからと言って人に救いを求めたところで
かえって依存と分離という体験するだけで、
逆に苦悩が増すだけ、ということもあるのだと思います。

つまり、人に救われるだけでは
「救い」はやってこないということ。

苦悩とは切り傷のようなものとも
言えるかもしれません。

誰かが、その傷の痛ましさに
見るに見かねて絆創膏を貼ってくれたとしても、
自分からすすんでその傷を治そうとせず、
その傷口に触れていては
傷は治りません。

絆創膏をくれる人は、傷を治してくれる人ではありません。

自らが「傷からの自立」をすることでしか、
本当の意味での救いは訪れないのです。

人生、いつも必ず誰かが、
自分の傷を見つけて絆創膏をくれることはありません。

人に労わられること、傷を治してもらうことで、
苦悩をやり過ごすことを覚えてしまうと、
誰も救ってくれない時、
自分の力で、自らの苦悩を癒せなくなってしまものなのです。

いつも常日頃、
他者に苦悩の解決を求めているだけでは
心の自己治癒力は高まりません。

弱った末に、自分の力で立てなくなる。

完全なる孤立無援の状況に陥ることは、
人生において、決して稀なことではありません。
それ自体、その時は、それを呪うべき不幸なこととも
感じることでしょう。

けれど、
自分で自分を癒す術を身につければ、
誰からの絆創膏も必要なくなるのです。
なぜなら、自分が絆創膏を持つことになるのだから。
自分にためにそれを当てることもできれば、
時には、誰かにそれを与えることもできます。

そこまで至った時、人は
「心の傷」はいつでも思い通りに癒せるものとなります。
そしていつでも癒せる傷は
もう傷ではなくなっていることでしょう。

傷はもう傷ではないのなら、
絆創膏もいらないのではないか。

そこまで思い至る過程の中で
人は「救いがどこからくるのか」という問いに
答えを見出せるのだと思います。

そう。救いはいつも
自分の中に
決意されうる選択の可能性として
存在しているのです。

普遍在の救いの中で
誰の見聞きでもなく、
自らの実体験として
苦悩の意義を知ることで、
この世の全ても、
自身の生涯で出会うすべての出来事も、
ありとあらゆるものは
不要ではなかったと気づくのです。

癒しとは、あるいは救いとは、
自分は泥沼に咲く蓮の花を
ある一定の場所から眺める人だったことを
思い出すことであり、
人の本質とはその状態の体現の
「一つの解釈」に過ぎないものなのかもしれません。

まして、救いは
外からは訪れない。

愛も救いも、
そして苦悩もまた、
自分の中から「必要だから」顕れているのです。