安息はどこから来るのか?

安息はどこから来るのか?

結論から言うと、
人の安息というものは、
どこからもやっては来ないのでしょう。

何故なら、心安らげる
特定の場所や特定の概念というものは
存在しないのだからです。

思うに、
内側の意味においても、外側のそれであっても、
そもそも人の存在と
その生きる世界というものは
本質的に心の安息という庵から
飛び出した存在であるのかも知れません。

安息という、
何も揺らがない、そよがないそこから飛び出して
「自分というコンセプトを表現する」ために、
今、自分はここにいる。
それが、精神を宿した人の本質なのではないか。

ならば、安息という世界は
自分の元には訪れません。

愛も救いもおそらく内側からやって来て
もたらされるものなのでしょう。
けれど、安息はそうではないのです。

安息は求め待つものではなく、
そこへ、やがて帰っていくものなのです。

人は最後に安息へと帰っていくのです。
安息から抜け出し、
そして悠久の時を旅して
最後に安息へ戻る。

そして、その旅した道のりこそが
「世界」
そこで経験したものすべてが
「世界」

ひとまわりして、
結局は常に「安息の内側」に抱かれていたことに、
はじめからそこにいたことに、
気づくのかも知れません。

安息の場所というものは
元々、ずっとそこにあるのです。
安息から離れていったのは、
当の自分だったことを忘れて。

故に、安息とは
どこからかやってくるような質のものでは
ないのでしょう。