罪は存在しない

おそらく、
およそ人にとって罪というものは
存在しないのだと思えます。

罪を罪たらしめているのは、
間違いなく人の心であり、
その、人が罪たらしめている物事というものは、
単なる一つの事象に過ぎず、
そこに善も悪も、厳密な意味では存在しないのでしょう。

なぜなら、
罪という概念、あるいは規定というものは、
人が変われば、文化が変われば、民族が変われば、
いかようにも変わりうるものだからです。

罪という概念自体、
実に相対的かつ多元的で、
流動性のあるものだから、
人が客観的に罪を扱える範疇というものは、
せいぜい、警察が追求し、裁判官が断罪する程度の
人の内的世界からすれば
実に狭い表層的な部分だけなのでしょう。

つまり、人類の法は
人の目に見える部分でしか縛ることができていない
ということ。

過激なようですが実のところ、
「人を殺める」という
人類の大罪とも言える行為でさえ、
それを罪と思う人がそう思うだけであって、
大きな視点で俯瞰すれば、
一つの現実の中で起きた
一つの事件であり、それ以上でもそれ以下でもないのです。

かといってこれは、
大罪を肯定し、無秩序を推奨している
という意味では決してありません。

物事、事象というものは、
必ずそれは起こるべくして起こる
「結果」なのです。

大罪を犯すことに理由があるとすれば、
それは何かしらの、
そうした結果を招いた「原因」があるからです。
ゆえに、目前で誰かが
惨たらしく蹂躙されて殺されていくことにも、
大局的に見れば
おそらく必然なのです。

そしてその「凄惨な必然」が
新たな結果の原因になるのです。

何者かによって非業の死を遂げた
その埋め合わせは、
原因に対しての結果として
必ず埋めなければならいのが真理です。

その真理のディテールに気づけないうちは、
人は、それこそ別に大罪のようなものではなくとも、
小さな取るに足らないような過ちでさえ、
何かしらの結果として必然としておきた事象に対して
新しい原因を作ってしまう反応しかできなから、
人はその業の循環、いわゆるカルマというものから
抜け出すことができないのでしょう。

この世界に、罪というものは本質的には存在しません。
罪と罪に対する「悪と断罪」というレッテルを貼ることは、
ともすれば、揺れる振り子を
さらに揺れるように力を加えることに等しいのでしょう。

それを悪と断じる心が
新しい「罪と呼ばれる」原因を作ってしまうのです。

ここで一つの問いが現れます。

ならば、殺人者を肯定するのか、と。

これは単純な話、
自分自身が、その自分の認識が取り巻く
実際の現実の世界において、
いつも大罪を犯す人たちと過ごす生活を
自分が容認できるか、その一言に尽きるのでしょう。

自分は、そういう荒んだ世界で生活したいと思わず、
また、実際にそんな荒んだ人たちなど
自分の実生活に存在していないのであれば、
それだけで良いのです。
わざわざ「修羅の世界」を覗く必要などないのです。
自分とは別の世界の話なのであって、
それどころか「修羅の世界」を悪として意識することで
自分のその修羅の世界に
引きずり込まれていくことにもなりかねません。

罪の意識というものが、人間の自我の産物であり
実在性の乏しいものであることを知り、
またそれを実践できるのなら、
その人は罪が生まれない世界を生きていることになるのです。

(大なり小なり)いちいち人を裁かない、
それだけで人は業の鎖から解放されるし、
たったそれだけのことで
人は天国の住人になれるのです。

この世に罪など存在しないのです。