自分の居場所難民

人は、自分には居場所があると
そう思えることは非常に大切なことだと思えます。

ここでいう居場所というのは
もちろん、自分の居場所のことです。

これがない、あるいは
見つけられない、というのであれば、
それは結構な度合いでの
自己否定の顕れであるように思えます。

言い換えるなら、
自分の居場所というものは
自分自身を肯定できる外的環境のことであり、
そういう場所の不在というものは
そっくりそのまま、
自己肯定の不在であると言い換えられるでしょう。
誰も、自分にとって居心地の良くない場所を
手放しに肯定することはできないのですから。

僕自身も過去に
居場所を失ったことは何度もあります。
そして今だって
ここが自分の居場所であるのかと
時に疑問に思い、自問自答することも
しばしばです。
そして、自分の居場所が揺らぐときというのは、
振り返ってみれば過去のいつであっても、
やはり自信を肯定できていない
そういう心境にあった時であった気がします。

こうして考えてみれば、
自分の居てもいい場所というのは、
常に自分を肯定していられる場所のことであって、
自身を肯定できない心境にあっては
外的などこかしら、あらゆる
実際の場所や、社会にそれを求めても、
永遠に見つからないのだろうと思えます。

「アンガージュマン」という言葉があります。
サルトルの提唱した概念、言葉なのですが、
色々な解釈があるものの、
ごく一般的には、
「自分自身で選び取ることができるという主体性」
という意味になるのでしょうか(ちょっと違うかも?)

サルトルの時代、つまり第二次世界大戦後、
まだ民主主義と社会主義が
対立構造のただ中にあった時代、
そして、「民衆の熱」が熱く、
旧来のコンサバティブからリベラルへ
世界を動かし、変えていけると信じていた
若い時代というのは、
「アンガージュマン」の概念はある種の
新人類、新時代の持ちうる可能性のある
特権としての期待があったのかもしれませんが、
今の老いて成熟した時代において、
「アンガージュマン」という概念もまた
今の世情には合わない
過去の概念となっているのだろうと感じます。

それはなぜ、どうして、と問われることの答えが
前述の「居場所」にまつわるところに
関わってくるような気がします。

「アンガージュマン」つまり、
自分で自分の生き方を自由に選択できる主体性が
ごく当たり前の「個人の権利」として
特に意識せずとも普通に容認されて
しかるべき社会に生まれ育った人間、
つまり僕の世代や、もっと若い世代にとって、
『自由に与えられた主体性は
内に向かわずを得ない、暗鬱でめんどくさく、
そして大きな足かせとなっている』のです。

それだけ自由な社会になったとも言えるのですが、
逆に自分の向かう場所は
自分で決めなくてはならないわけで、
そのためには己を知ることは
遅かれ早かれ不可避となるし、
どこまで正しく、自分の内側と外側を
すり合わすことができているかの
「解」も明確になるものでもないとなると、
こうした部分の難しさから
「自分の居場所からの難民」が
多く生まれるのだろうと思います。

それゆえに
自由であることの本質は内向であるのでしょう。

しかしもしかすると、
社会参加、あるいは政治参加という、
半ばファッションのような方便で
外的世界に投げかけられていた
「アンガージュマン」は、
その後50年を経て、
より精神の自由性を実践できるようになった今こそ
今一度「アンガージュマン」の概念を
原点に立ち返って問い直すべき時代になったとも
言えなくもないのかもしれません。

外的結果としての世界観で
人生をゆめゆめ浪費している人たちよりは、
おそらく
「自分の居場所からの難民」である人の方が、
「アンガージュマン」の実践者としては
適任であるのかもしれません。

つまり、
自己否定の影を知る人こそ、
実は
本当の意味での自己肯定に
近い距離にいるのではないかと思えるのです。