不寛容は人生の無駄遣いである

僕自身、かれこれ長いこと
ブログを書いてきましたが、
その内容の半分以上、
ポジティブかネガティブかのどちらかであれば、
ネガティブなもので占めているように思います。

後ろ向きという意味でのネガティブというより、
何かしらの物事について、
それは違う、あれは違うというような
批判姿勢のものが多いのではないでしょうか。

まあ、世の中の性質として
ネガティブなものはすぐに
フィジカル化しやすいということもあるでしょうが、
ポジティブな物事は、
それだけですでに「肯定してしまっている」わけで、
違和感がないがゆえに、意識にも上らないし、
上らなければ、フィジカルな世界に出力されないのでしょう。

そう考えると、
この世界、ことインターネットなどは
その最たるものとして、
人間のゴミ溜めのような場所なのだと思えます。

しかしこう考えるこの「批判姿勢」というものは、
僕自身、そもそものメンタリティがロックだから
仕方がないじゃん、と開き直ることもできるのでしょうが、
と同時に、こういう思考というものは
旧い思考、旧い感覚、悪癖であり、
僕の中での更新されるべき
メンタリティかもしれないと、ふと考えたりもします。

不惑の年代も半ばにさしかかり、
もっと洗練されたメンタリティを
獲得していてもいいのではないかという、
過渡期のような感覚。

では、今の僕の現状のような
「批判」にベースを置いた視点より、
もっとソフィスティケイトされた視点とは
何だろうと考えてみます。

思うに、ズバリこの記事のタイトルの通り、
「不寛容こそ人生の浪費以外の何物でもない」
これの一言に尽きる気がします。

この世のいっさいがっさい、
人の心の隅から隅まで、
不幸や苦悩の最も原初というものは
己の不寛容さがそれを
否と断じたところから始まるのでしょう。

これが長い時間をかけて
菌糸を伸ばすように
不寛容の叢(くさむら)を形作り、
そこで窮屈にしているのが人間の姿であるように思えます。

かといって「何もかもを赦せるのか」?

そもそも、寛容とは何か?

まず知っておかなくてはならないのは、
寛容の実践として、
不寛容を背徳として退けることは
寛容の矛盾、つまり
偽物の寛容なのです。
あえて名付けるならこれは
「非寛容」と言えるでしょう。

かの哲学者スピノザ曰く、
『すべての限定は否定である』のだから。

不寛容までをも寛容するには、
寛容の中に不寛容を
内在させておかなくては成立しません。
あらゆる不寛容な、あるいはネガティブな定義を
スポイルすることは
寛容とは呼びません。

寛容と言うものは、
不寛容と一緒になって
影踏みをしているうちは、
まだ統合された寛容の地平には至っていないのでしょう。

不寛容なものの存在を、
あるいは、不寛容の定義そのものを、
「そのまま肯定することによって寛容に帰納する」
この片鱗が多少なりとも見えてくると、
おそらく、
あれが良いだとか、
何が悪いだとか、
そういう二元的なロジックの評価が
実に無意味というか、
心底、時間の無駄であると
ふと、気づく瞬間があるものです。

不寛容である対象に、
そういうレッテルを貼らなくなると見えてくる、
フラットな本質というものは
こういうところから垣間見ることができると思えるし、
事実として、
こういうものの見方は
本来の人の精神の有り様として、
実はとても楽で平和な視点なのではないかと
思えたりもします。

天秤は真ん中で釣り合うのが
一番自然なのですから。