美しき世界

XX. Judgement・・・
結局のところ
人間関係というものは、
そこにどれだけの人が集まっていようとも
それらはあくまで
それぞれの「個人の体験」の
集合であるに過ぎないのです。
誰かがとった行動に
意味を与えているのは、
その誰かではなく
自分自身以外に他は無いからです。
故に人間関係とは
あくまでも「ごく個人のいち体験」どうしが
相対的にかかわり合いながら
流動的に変化し続ける、
ひとつの集団に過ぎないのです。
それはつまり、
人間関係においては
自分との関係の
意味付けの捉え方によって
相対的にかつ自由に、
自分の好きなように変える事が出来る、
ということを意味します。
その前提から、現実的な面で
何が言えるのでしょうか?
たとえば
相手は、自身の
「個人としての体験」に基づいた
言動をとります。
その言動に反応したあなたは、
「あなたという個人としての体験」で
それを捉え、意味付けをし、
それに基づいた言動でリアクションをします。
それを受けた相手や、また別の人も
彼らの「個人としての体験」に基づいて、
あなたの言動に対する
リアクションをして・・・、
このように「個人の体験または経験」という
フィルターを通して
現実の中でそれらは連鎖し、
流動的に変化する
絶対的な全体を形成するのです。
たとえば恋愛などは、
それが顕著に顕われる
いい実例かも知れません。
恋愛においてほど、
相手の言動にナーバスなほどに
反応し、そのリアクションとして
「個人の体験」というフィルターを通して、
相手に返すという行為を繰り返すものは
ないからです。
面白い事に、こと恋愛となると
恋人たちが互いに
「求め合う」という
体験を経験することが多いものです。
つまり、
「対象となる特定の相手によって
自分の恋しさ、寂しさを埋めて欲しい」
そんな体験が発露するのです。
互いが、互いの
「経験」というフィルターを通して
求め合い、なんとか
それに叶うようにするために、
本来自分には持ち合わせていないものまで
与えなければならなくなり、
やがては疲弊し、
恋愛関係を結ぶその手を離さざるを得なくなるのです。
それは「恋の死」とも言えるかもしれません。
別れた恋人たちは、
もう互いのもつ「個人的な経験」に
干渉し合う事は無くなり、
実際にもう会う事さえも無いかもしれません。
結局は最初の欲求であるところの
「恋しさ、寂しさを埋めて欲しい」
という心情の体験だけが残るのみで、
最初から最後まで
常にそうした現実だけを経験し続け、
疲れ果てた
自分がそこに居るだけなのです。
それが全ての恋の末路なのでしょうか?
いや、僕はそれだけが
恋の末路であるとは考えません。
恋という、
いわゆる「相手から奪い合う」体験に
終止符を打ち、
「見返りを求める事なくただ与え合う」
という体験に
互いが切り替わった時、
それは永続的な「愛」へと
昇華するのではないかと思うのです。
もともと持ち合わせていないものまで
与えるというのではありません。
それでは、「奪い合う事」を
逆説的に実践しているに過ぎないからです。
見返りも期待してはいけません。
それもまた「奪い合う事」が
体よく姿を変えただけのことですから。
自分が持っているものだけを
自然体で必要な時、必要なだけ
相手に与えればいいのです。
もしかすると
そうする事によって、
相手は居心地を悪くして
立ち去ってしまうかもしれません。
それはそれで仕方の無い事です。
それこそ、その人とは縁が無かったのでしょう。
そしてなにより、そこに残った経験は
「常に誠実であった自分」であり、
「何もかもを奪われて疲弊した、残念な自分」では
ないはずです。
この差は大きいです。
常に誠実でいる事には
明るい未来が開かれますが、
何もかも奪われて疲弊した自分は
また同じ事を繰り返してしまうかもしれない
危うい未来を怖れます。
恋を愛に昇華させるには、
常に相手に対する
見返りを期待しない誠実さが要求されるのです。
だから、
真に人を愛するというなら、
相手を信じ、好きにさせてあげるだけの
おおらかさが必要になってきます。
しかしながら、
相手を信じず束縛する事も出来ます。
それらは、
自身が経験する「個人的な体験」に対して
どのようなリアクションをとるか、
その舵取りが出来るのは
自分自身でしかないという事を意味します。
ここで話を最初に戻します。
人間関係とは、それすなわち
「個人の体験」であり、
「個人の体験」どうしが
相対的にかかわり合いながら
流動的に変化を続ける絶対的な集合
である、と。
個人が体験する現実を
どう捉えるかによって
世界はまるっきり
別のもののように見えてくる、と。
自分が世の中の
何を見ようとしているかによって、
「個人の体験」という
自身を中心に広がる世界は、
いくらでも変わって見えるのです。
それはつまり、
自分の見ている世界は、
人が見せているものなどではなく、
あくまでも自分自身が
能動的に見ている
世界の一部分に過ぎない事を
示唆するものです。
「自分の個人的な体験」という世界の中で
美しいものを見る事も、
醜いものを見る事も、
自由にできるのです。
決して、誰かにそれを
無理矢理に見せられているわけではないのです。
あくまでも、この世界というのは
「個人的な体験」の集まりに過ぎないのですから。
今、
何の理由があるのかも分からぬまま
人を殺めるという
凶行に走る人が多いですが、
彼らは自分が能動的に
「世の醜いもの」を自分で見ていたのに
それは人が見せているものだと
思い込み、破滅へと走ってしまったのです。
もう一度言います。
この世は自分が見ようとしている世界を
単に「個人の体験」の中で見ているだけなのです。
そしてその「個の体験」の集合が
絶対的な全体と言う、ひとつの存在なのです。
だからこそ、
今だからこそ、
その事に誰もが気付き、
この世の美しさを
自ら望んで見ようとしなければなりません。
もう、世の中の醜い部分は
十分見てきたはずです。
多くの人が世の中の「醜い部分」に
意識の焦点を合わせ続けていれば、
恋愛関係の引き合いでもお話ししたように、
疲弊して手を放し、
関わりを持つ事を止めてしまった
「絶対的な集合」、つまり
この世はバラバラに解体してしまいます。
だから、
これからは「美しいもの」を
自らすすんで見ていこうではありませんか。
そうすれば、
個人の体験の集合である
絶対的な「世の中」という存在も
美しく変わっていくのだろうと思うのです。
そうなるためには、
美しいものを求め、
見返りを求める事なく愛し、与え抜く
自身の意志が必要となってきます。
恋愛関係で恋が愛に昇華していく
そのプロセスと同じように、
自分自身と
世の中との関わり合いを省みて、
この絶対的な「相対性を持つこの体験の集合」を
維持していくためにも、
もっと多くの人が
世の「美しいもの」に
目を向ける必要があると思うのです。
それが実現した時、
人の精神性は
「個としての愛」が
「全体へとおよぶ博愛」へと
昇華していく様を「体験する」でしょう。
そしてやがては、
「相対的な個の体験」という個人から
「絶対的な全体としての体験」を経験する
個を超えた、
さらなる深い
「全体を意識した個」に目覚める
事ができるでしょう。
この世の醜さだけを見続け
この世界を汚す事も、
この世の美しさを見いだして
この世界を美しくする事も、
好きにできるのです。
今までに何度も言ってきましたが、
「美しいものには神が宿る」のです。
僕たちには
この世という体験に神を宿す権利、
いや、義務があると思うのです。
そのために
「全体であることを意識する個」
として目覚め、
この世の中を今一度
美しく再構築していこうではありませんか。
この世が解体してしまわない
今のうちに・・・。