生命とは感性

先週、お話をした記事で
「生命を最終的に肯定できるのは、感情論である」
と言う感じのことを書きました。

そこから、もう少し踏み込んで
「命、あるいは魂」と言うものは
どのように認識されるものなのかという
一つの考察を論じてみようと思います。

まず、結論から言ってしまうに、
もしかすると
「生命という認識」というものは、
それを認識する
「センスや感性」に依存するものではないか、
ということ。

こと、こういう話になると
気味悪がったり、胡散臭く思えたりして
頭ごなしに嫌悪する人も少なくないという事実が
何よりの証明となるででしょう。

絶対的、あるいは相対的に、
または
主観的、あるいは客観的に
「生命が在る」以前に、
生命について考察する人の
「センスや感性」というフィルターを通らないと
個人の内的世界の中で
生命という姿形を想像し、構築することが
できないのだから、
結局はこれらを
嫌悪する人も、そうでない人も
自分の価値観、あるいは客観であると思い込んでいる主観
という次元で、生命や魂の所在について
「自分なりの」評価しているのです。

それ故、当然、センスや感性というだけに、
それは客観的かつ絶対的な
「一つの解」というものが存在しうるわけでもなく、
論理的な唯一の整合性を超えた部分に
「層」として存在しているものなのかも知れません。

この「層」が、より事象的な次元にまで到達すると、
それは文化となり、信仰となり、社会となっていく。
そのような共有されうる物的なソーシャルなレベルの
最上部におそらく「生命の概念」があるのでしょう。
そして、より形而上になっていくにつれ、
それは個的な体験となり、
そこで何を見るか、あるいは
そこで何を知ったのかという部分で、
「生命を識る」という感性は
醸造されるものなのかも知れません。

とするなら、
もしかすると
「主観的な生命」というものに、
「他者の存在は必要ないのかも知れない」
と示唆されもするのですが、
それもどうも違う気がします。

「生命」という、全く主観的かつ個人的な
認識体験を得、そして豊かなそれなるためには、
そこに「他者という差異」が必要なのではないか。

互いに異なる「生命に対するセンス」を持つ
複数の人たちとの、
内的な交流を通して、
自らの生命、あるいは
生命に対する認識と感受性が
拡張されていくものなのではないか。

例えば、他者との交流の一切を絶ったとして、
その、全てを絶った人にとって
己は全となり、
全でしかあり得ないが故に、
それは無と紙一重となります。
このような状況において、
それは限りなく『生命の消去』に近接していくのです。

「常に客体を認識すること」によって
己という生命現象は成立するのだと。

故に、主観と客観とに
いささかなりともの差異がなければ、
どこからどこまでが
自分であるのかという境界も認識できないし、
境界がないのであれば、
自分はいないも同然なのです。

そうならないために、
人は「他者を他者と認識する」のでしょう。

そして、
自己をどう外界と交わらせるか、
それこそが
「生命を認識するセンス、感性」であり、
感情論より上の部分から見えてくる地平でもあるのです。

外界の差異を認め、受容することもない人にとっては、
一つの肉体の死というものは
機械の電源を落とし程度の、
文字通りの「消去」であるかも知れないし、
外界と自己の内的世界とを豊かに
交流させられる人にとって「死」というものは、
消滅する以外、あるいは以上の
ステージを持ちうるかも知れない。

それを決めるのは、
あくまで
「本人の命に対する造詣」なのでしょう。