茜丸の受難

故・手塚治虫氏の
代表作「火の鳥」のいちエピソード「鳳凰編」
というのがありまして、
そこに、茜丸という人物が出てきます。

彼は「永遠の命」を手にいれる(いれた)性(さが)を
負う者でありながらも、
「茜丸として」死にゆく存在なのですが、
この辺りの経緯や、その意味するところを説明するには
あまりに長くなるし、
解釈も人それぞれあるので、
今日の話の要点の部分だけをかいつまんで言うと、
彼こと茜丸は、その死の間際に
火の鳥から
「お前は永久に人間に生まれることはない」
と告げられます。

さて、ここからは「火の鳥」の物語を
離れたところから
茜丸の受難の意味を考えてみたいと思います。

(作品火の鳥で語られる永遠の命の解釈は別として)
そもそも、
命が無限に続く、つまり
別の言い方をするなら
不老不死であるということは
どういうことなのか。

永遠に死なない(死ねない)ということは、
上述の火の鳥の言葉にもあるように、
それすなわち、
『永遠に再誕できない』ことを意味するのだと思います。
要するに「リセットできない」ということ。

人は生まれながらにして賢い存在ではありません。
何かにつけて、
失敗と成功を繰り返しながら
賢さを積み重ねていく存在であり、
そしてまた、有限の肉体であるがゆえに、
他者へとバトンを渡すように、
その賢さをつないでいく存在なのです。

自分一人で完結する賢さだけでは、
人はあまねく賢くなることはできません。
多く、広く賢くなっていくためには
誰かに身につけた賢さを
伝え広めていくことが必要になってくるし、
と同時に、
ひとりの人間の叡智の負の側面ともいうべき
「失敗という業」あるいは
「業という失敗」に関しては
「その叡智から拭い去る」ことができる、
そういう点で
有限の肉体を持つ生命というものは
実に、いや、完璧に機能していると思えます。

永遠に生まれることができないということは、
それすなわち、永遠に新しくなれないことを
意味するのではないか、と。

そう考えると、
たとえ永遠の命、
いや永遠と言わずとも、
仮に寿命がたったの200年であったところで、
生きるほどに重くなっていく
自分の成したところの「業の結果」を背負いながら、
恒久的に刷新されることなく
存在し続けることの行き着く先は
狂気でしかないような気がします。

永遠を求めて
持続的なものとして維持しようとするほどに、
それは「人が考えるところの意味での死」に
近接していくものなのかもしれません。

とすれば、「生」というものは、
ただ単に「在るそれ」のことを指すのではなく、
『有限と無限との彼岸を交互に行き来する営み』
の中にその本質はあるのかもしれません。

そう考えるなら、
冒頭の茜丸という、
永遠の命を手にし、その庭の住人である彼は、
生きながらに、死んだものと等しい存在であり、
『魂のサイクルから逸脱した存在』であるのかもしれません。

そして、彼の何が受難であるのかというのなら、
永遠の中にあって
有限、つまりリセットを得られないことの
「重さ」であるのでしょう。

人という存在は往々にして、
「死という現実」に直面しないと
「生ある現実」について
考えることは滅多にないものです。
故に、茜丸にはもう
「生ある現実」について
思いを巡らすことはできないし、
それすなわち、
『生ある現実を永久に得ることはできない』のです。
そして、「生ある現実」を持ち得ないのだから、
それは「死した状態にある」ことと
同じなのでしょう。

それが
『永遠の魂の内側』
なのでしょう。

そして、
「永遠の命」であることの意味を
身を以て知ったのが
茜丸だったのかもしれません。