死を望む者を論理で思いとどまらせる矛盾の滑稽

「命の重さ」とか
「命の大切さ」とか、
またあるいは、
「死んだら駄目!」とか。
人はこういう言葉を
意外と軽々しく使っているものです。

なぜ、それは軽々しいものとなるのか。

おそらくそれは、
上述の「命の〜」という、
それのロジックを
誰ひとり論理的に弁証できないからなのだと思うのです。

もう少し踏み込んで言うなら、
『人は、その存在の正当性を論理で説明できると思っている』
にもかかわらず、
誰ひとり、破綻なくそれを説明できないことを、
さも正論のように、ともすれば善人のように語るから、
命の尊厳が薄っぺらくなるのではないか、と。

まあ実際、可愛くない考え方なのは承知していますが、
例えば、
自死を望む人に対して、
諭し、説得するときに使われる言葉というものは、
冷静に論理的であろうと
いくら努めても、
結局、感情論でしか語ることができないし、
古今、誰一人として、
自ら死にゆくことの「悪性」を
完璧に説くことのできた人などいないのです。

冷静に、論理的に
「命の意義」を肯定しようとしても、
絶対にそれはかないません。
この手法においては
どうあがいても、
最終的に「自殺は肯定され得るもの」
という答えに、必ず行き着いてしまいます。
まあ、正確にいうなら
「自殺の肯定」というよりは、
『生を肯定することは、論理では不可能』
なのです。

様々な科学的、
あるいは社会学的な見地に立って
「論理的に突き詰めていくのなら」、
『誰も、別に生きていなくてもいい』のです。

こう提起されて違和感を感じるのは、
人の精神の領域の
現象的論理より上位の領域、
つまり、感情から上の領域が
「生の否定」に対して
違和感を感じているのです。

事実、
自殺を踏みとどまらせる人の言葉は、
結局、最終的に
「論理的には破綻した」感情論であり、
しかも、その感情論と論理との矛盾に触らないよう、
『とにかく、駄目なものは駄目』と
思考(つまり論理)を停止させなければ、
自死を否定する正当性を得られないのです。

そして結論してしまえば、
自分の意思をもって自ら死すことというのは、
誰にとっても、悪行ではなく、
今現在の生が気に入らないものであるのなら、
自ら好きに死を選んでも、
それは必ず論理的な正当性を持ち、
その行動を止めようとするものは
論理的に死を止められないので
『感情に訴えなければ』
それを思いとどまらせることはできないのです。

そう。可愛くない。
その「可愛くない」と思う「それ」こそが
『生命の怒り』であり、
その怒りの沸き起こる中心に
間違いなく魂が存在しているのです。

普段、どれだけ
論理や理屈を重用し、
「魂の存在」を軽んじている人であっても、
もし、ひとたび
死にゆく人を思いとどまらせなければならないような
シチュエーションに遭遇したのなら、
間違いなく必ず、
感情や心、そして魂の領域に泣きつくしかないのです。

死にたい奴は、とっとと死ね。
お前の代わりなど、いくらでもいるし、
たとえ代わりがなかったところで、
お前の代わりが無いなりに
世の中はいつも通りに
何も変わらず回っていくのだから。
自分が世界で唯一無二の存在であるなどと
間違っても驕るな。
人間ひとりの命など、
宇宙の塵にすらならないほど些細なものなのだから。

こうやって命が汚されることに
「感じる心」をエネルギーに変換して
生きられないのなら、
それはもうすでに
何をしても生きるエネルギーが枯渇しているのだろうし、
生きるエネルギーが枯渇したということは
生物として機能的には
生きていたとしても、
「人間の本質的」には
もう、すでに死んだ人なのです。

そのことに心底納得したその時はきっと
もう本当に死んでもいいのだと思うのです。

けれど、違和感を感じるうちは
死ぬに死ねないのです。
その命の存在を汚された怒りを糧にして
生きるしかないのです。